合わせ鏡のような事件
「本当は警察なんだろうが、ここで警察を呼ぶと、二人の関係を話さなければいけないな。たぶん、これは事件になるだろうから、第一発見者としていろいろなことを言われるのは間違いないだろう。そうなると、二人の関係を話さなければならない」
と思ったのだ。
実はこの男、部類の怖がりではあったが、実はプレイボーイでもああった。
彼女が知っているかどうかは不明だが、他にも女がいた。
この女とは、
「SMプレイの関係」
他の女も、そのコンセプトごとに楽しんでいた。
「イチャイチャしたい時の彼女」
「背徳を味わいたい時の、奥さん」
などと、それぞれにいたのだ。
そうしておけば、誰かと縁が切れても、寂しいことはない。自分には、いくらでも彼女やパートナー、あるいは、セフレなどが簡単にできるものだ。
ということを思いこんでいたのだった。
だから、女心が本当は分からないわけではないが、分かろうとしないのだ。そんなことを知っていて、別れを止めようという思いがあるのであれば別だが、この男は、
「別れるなら、別れたでいいんだ。どうせ、それだけの女だったということだ」
と考えるのだった。
だが、女の方が、
「警察、とにかく警察」
と言い出したものだから、もう警察に連絡するしかなかった。
最初渋ってしまったことを、悟られなければそれでいいだけだった。
警察に連絡すると、すぐに向かってくれるという。さすがに、その物体は何かということが分かっていて、警察に通報した以上、もう逃げることはできない。
逃げ出せば、遺棄したということになり、その罪が確定してしまう。報告だけはしても、その場からいなくなれば、怪しまれることもあるだろう。
ケイタイ番号は、110番に残っているので、確認することくらい簡単であろう。だから、逃げるわけにはいかない。
「何とか、行きずりで死体を見つけたということにしようではないか?」
と男は考えたのだ。
そう、転がっていたのは死体であり、警察に発見の報告義務が発生する案件だったのだ。
SMの関係
数十分してから、警察がやってきた。警察が来るまで、男と女、それに死体がそこにあるだけだった。
二人は、数十分しか経っていないにも関わらず、その場の静かな雰囲気に、すっかり身体が凍り付いてしまったかのように感じた。
さっきまで、火照る身体を持て余すかのように、貪り合っていたことが、まるで、数日前くらいの感覚になっていて、身体は完全に冷え切っていて、服を完全に着ていたのだが、
「一体、いつの間に着ていたんだろう?」
と感じるほどに、その時は意識していたはずなのに、後で覚えていないということは、それだけ上の空なのか、いろいろ考えることが、結論を得ることなく、グルグル回っているということなのか、考えてしまう。
女も決して、男の顔を見ようとしない。男も女の顔に目を向けようとはしない。一緒にいるだけで、
「本当に恋人なのか?」
と思うのだが、二人ともお互いに恋人だとは思っていない。
「性のパートナーだ」
と思っているだけだった。
風が、すすきのような穂を、なぞっていた。音がしているのかしていないのか分からないが、それは、
「聞こえるとすればどういう音なのか?」
ということが想像できたうえで、実際に聞こえていないということを分かっているにも関わらず、音を判断できている自分を確認したいから、関心しようという考えなのではないだろうか?
「そういえば、モスキート音というのを聞いたことがあったな?」
と感じた。
モスキート音というのは、
「ある一定の年齢から上の年齢になると聞こえなくなる」
という、高周波の音らしい。
モスキートというのは、蚊のことであり、蚊が飛んでいる時の音を、
「モスキート音」
だというのだ。
もちろん、男はそんな年ではない。まだ二十代後半で、会社でも若手の、第一線のバリバリだというところであろう。
会社では、主任クラスであろうか。普通に第一線でバリバリできていれば、ある一定の年齢に達するとなれるというものだ。
ただ、そう考えると、主任も係長も、課長代理くらいまでは、ある一定の年齢になれば、普通になれるところであろう。
課長以上となると、会社側の人間ということになり、大企業で、社員組合などが存在するところは、課長未満でしか形成することはできない。
つまりは、課長以上は、
「残業代という概念がない」
という意識がある。
だから、会社に対して、社員として組合を作って立場的に言えるのは、課長未満である。課長は、ある意味組合とは敵。会社では、
「管理する側」
になるのだ。
だから、彼らのことを、
「管理職」
と呼ぶのである。
そんな彼は、主因になった時、ふと感じたのだ。
「今は第一線で仕事ができていて、やりがいがあるんだけど、このまま主任、係長と年功序列で上がっていって、次第に、上司との間を橋渡しと言えば聞こえはいいが、板挟みになることで、やりがいを持ち続けることができるのか?」
ということであった。
部下からは、
「煙たい上司」
と思われ、上司からは、そんな部下に気を遣っていると、
「部下をうまく使うこともできない」
という管理能力の欠如を指摘され、罵倒されることになる。
という妄想を抱いてしまうのだった。
自分が部下の時は、
「俺たち第一線では、思った通り、ノビノビやればいいんだ。何かあれば、上司が責任を取ってくれる」
ということで、ノビノビ動くことができた。
しかし、今度は自分が上司になると、部下には、
「ノビノビやれと、今まで言われてきたことを今度は自分がいうようになるのだが、責任は俺たちが取る」
ということを果たして、胸を張って言えるだろうか?
と考えるのだった。
「そんなこと、言えるわけないじゃないか?」
と考える。
「よく、あの時の上司は、そんなことを口にする勇気があったな」
と思ったが、
「勇気をもって部下に接することが、まずは大切なことだ」
ということを、分かっていなかったのだ。
その時の上司は分かっていて、それも、自分が上司から受けたものを、部下に示したのであって、ここは、一種の、
「通過儀礼」
のようなものである。
ただ、どうしても、その勇気が出てこない。
それは、彼が仕事をする意味として、
「やりがい」
というものを発見したからだった。
「第一線で、仕事をバリバリこなし、その成果は、やればやるほど出てくる」
というものだった。
今の時代の人には分からないだろうが、これはまるでバブル時代の、
「仕事をこなせばこなすほど、給料がもらえ、企業の方も、事業を拡大すればするほど、利益が生まれる」
という、単純計算の上でなりたっていたことが、直接、
「やりがい」
に繋がるというものだった。
しかし、バブルが弾けてからこっち、リストラ、経費節減、吸収合併などという、それまでとはまったく逆の世界になってしまった。だから、時代に乗り遅れると、あっという間に呑まれてしまい、倒産の憂き目に遭い、社員は皆路頭に迷うという悲惨な状況が、日常茶飯事となっていた。
作品名:合わせ鏡のような事件 作家名:森本晃次