合わせ鏡のような事件
今でこそ、ストーカーという言葉が流行り、犯罪として定着してきたが、今から、30年くらい前の、いわゆるトレンディドラマというものが流行っていた時代に、ストーカーをテーマにしたドラマがいくつかできるくらい、社会問題だったのだ。
ドラマは、その異常性癖を、犯罪として捉え、
「いかに、ストーキングというものが恐ろしい犯罪となるのか?」
ということを示したものだった。
その恐ろしさを目の当たりにすることで、
「昔からあるにはあったが、最近はそれがエスカレートして、社会問題になっている」
ということが増えてきていたのだ。
例えば、学校などにおける、
「苛め」
という問題もそうであった。
苛めというのは、昔からあり、苛めという行為をわざわざ言葉にすることはなく、ただ、
「苛めっこ」
がいて、
「いじめられっ子」
がいるという構図があっただけだ。
何が違うのかと言えば、昔は苛めと言っても、ルールのようなものがあった。
しかし、
「苛め」
という言葉が社会問題として浮上してきた時は、昔では考えられなかったようなことが実際に起きてきていたのだ。
例えば、
「苛めに遭った子供が、苛めを苦にして自殺をする」
というようなことである。
昔からなかったわけではないのだろうが、社会問題とまではいかなかった。
さらに、苛めを受けた子供が、
「不登校になり、引きこもりとなる」
ということが特徴だった。
「不登校」
という言葉と、
「引きこもり」
という言葉が生まれたといってもいい。
昔は、学校に行かない子もいて、それが、
「苛められるから」
という理由もあった。
しかし、昔は、不登校などという言葉ではなく、
「登校拒否」
という言葉だったはずだ。
似ていることであっても、言葉が違えば、違うものだと言えるのではないだろうか?
それは、
「日射病」
と、
「熱中症」
と呼ばれるもの。
まったく違うものだとは言わないが、
「似て非なるもの」
といってもいいだろう。
「熱中症は、日射病の一部」
と言えるが、今の熱中症は、それだけではないのかも知れない。
今の時代は、この半世紀で、
「似て非なるもの」
というものが増えてきているのだろう。
「昔はこういっていたが、今は言い方が変わって、こういうようになった」
というものは、似ているが決して同じものではないのだった。
昔の苛めには、基本的には、
「苛められる子には、それなりに理由があった」
と言えるであろうが、
「苛め」
という言葉が流行するようになると、
「苛めに理由なんかない」
ということになってくるのだ。
昔の苛めの原因は、苛められる人間のどこかに悪いところがあったからだというのが、一般的だが、とは言っても中には、
「あいつを見ているだけで、むかつく」
という理不尽なものもあった。
しかし、その理由としては、そのほとんどが、苛められる側に、何らかの起爆剤のようなものが潜んでいたからであろう。
だが、
「苛め」
という言葉が定着してからは違う。
苛められる側に理由があるのは、苛めのターゲットを決めるうえでの、ただの過程でしかなく、苛めの原因は苛める側の、
「苛めでもしないと、自分で抱えておくことができない」
という、ストレスのような、ジレンマのようなものが存在しているからではないだろうか?
苛めということが、苛められる側にないのだから、苛められる側の防御方法は、ないといってもいい。相手の都合で勝手に苛められているのだということが分かると、これほど恐ろしいことはないということになり、自分の身を守るには、
「徹底的に逃げるしかない」
ということになる。
苛めが流行り出した頃は。親も信じられない。
親の世代は、苛めというと、
「苛められる側にも何か理由がある」
と思っている世代なので、苛められているということが分かると、
「お前にも何か原因があるんじゃないか?
と、本来なら味方になってくれるはずの親が、まったく味方になってくれようとはしないのだ。
それを考えると、
「学校にいかない」
「いじめっ子から徹底的に逃げる」
というだけでは、うまくいくはずがないというわけである。
そうなると、家でも居場所がなくなり、家の中での、
「引きこもり」
が始まる。
昔には、引きこもりなどということは、ほとんどなかっただろう。そこまで思い詰める前に、自分に対しての苛めがなくなってくるからだ。
基本的な苛めは、昔であれば、小学生が多かったのに、今では、中学、高校生が多い。それだけ、苛めも陰湿で、金銭が絡んできたりすると、一歩間違えれば、犯罪に手を染めてしまうことになる。
昔は、万引きなどということもあったが、今では、
「人のお金を取る」
そして、苛めっ子に渡すということも多くあり、一度渡してしまうと、ハイエナのように、ずっと付きまとわれ、ストレスで苦しんだ挙句、自殺をしてしまうということも少なくはない。
そういうのが、連鎖となって引き起こされてきたのが、
「苛め」
という言葉が、いわれるようになってからのことだったのだ。
そんな苛めが流行った時代に、この
「ストーカー」
といわれる犯罪も深刻化してくる。
昔からその言葉があったかどうかは分からないが、ストーカーというと、被害を受ける人間に関係なく、加害者側の、完全な思い込みから来るものである。
例えば、大学でノートを見せてもらったことで、
「この子。俺に気があるんじゃないか?」
と勝手な妄想をしてしまうことがある。
そして、好きになった子のことを少しでも知りたいと思って、学校の帰りに彼女の家が知りたいと思って、後をつける。
そして、家が分かると、住所から、電話番号を調べようと思えばできたのだ。
何しろ、昔は携帯電話などはなく、
「一家に一台、固定電話がある」
というものであった。
しかも、昔は電話帳に、普通に固定電話が乗っていた。そして電話帳も、毎年、電電公社(現NTT)が発行したものを、古いものと交換するように、配布してくれていたのだ。
今では絶対に考えられないことである。
携帯電話の普及で、固定電話が相当数なくなっているというのも、その理由であるが、それよりも、
「個人情報保護法」
という、プライバシー保護の観点から、電話帳配布はなくなってきているのであった。
そんな時代の変化に、最近は慣れてきたのだが、当たり前のこととはいえ、最初は、この
「個人情報保護法」
というものに、
「生活しにくい世の中になったものだ」
という、嘆きの気持ちを感じている人も少なくはなかっただろう。
昔だったら、気になる女の子がいれば、その子の後をつけて、家を知りたいということを平気で、悪いことだという意識も皆無のまま、普通にしていただろう。
しかし、今だったら、
「うわっ、気持ち悪い。そんなのストーカーじゃないか?」
といって、まるで、害虫でも見るかのような、汚いものを見るかのような目で見られてしまう。
作品名:合わせ鏡のような事件 作家名:森本晃次