合わせ鏡のような事件
という感覚に襲われてしまい、すれ違っても、そのことに気づかず、永遠に交わることのない無限を、彷徨い歩くことになる。
そうなると、地獄である。
「目の前に広がるものが、すべて幸運に結びつく」
と考えたり、
「何を見ても、地獄にしか見えない」
という、
「負の連鎖」
を考えたりする時というのは、すれ違った瞬間に気づかず、
「いずれ、交わることだろう」
と信じ続けることにあるのではないか。
それが躁鬱症であり、まるで螺旋階段を描く、
「スパイラルだ」
と言えるのではないだろうか?
そう、この男は、
「Sではなく、躁鬱症なのではないだろうか?」
と、オンナは感じていたのだった。
そんな男と自分の違いを感じた時、
「やっぱり、この人とは合わないんだ」
と思い、プレイの一つ一つを思い出してみると、腑に落ちない点、あるいは、Mである自分には許容できない部分があることに気づいていくのであった。
その部分をいかに考えるかということであるが、
「歩み寄れる部分を一つ一つ潰して、妥協していく」
という方法もあるだろう。
相手がそれを分かっていないのだから、相手にそれを求めるのは無理なこと、歩み寄るのはこっちであって、相手が拒否をしたり、
「そういうことなら、俺にはできない」
などということを言い始めると、こっちは、プライドを捨ててまで相手に合わせようとしているのだから、そのショックは計り知れないだろう。
ただ、それを、
「Mの役目だ」
と思っているM女がいるとすれば、男をつけあがらせているのは、そんなM女の、
「無意味な慕い方」
といってもいいだろう。
いくら
「Mだ」
「奴隷だ」
といっても、許せる部分をしっかり自分の中で持っていないと、自分が苦しむことになる。
それだけではなく、Sの男を勘違いさせ、
「M女に対して、男は何であっても、従わせることができるんだ」
などと、思わせるという、罪悪を犯しかねないのだ。
そんなことになれば、
「私さえ我慢すれば」
などと思ったことによって、世のM女全員に迷惑をかけることになり、
それこそ、
「M女全員を敵に回す」
ということになるかも知れない。
これは、
「禁煙、喫煙」
の発想においても同じである。
最近では、
「受動喫煙なんとか法」
などという、いい法律ができて、
「基本的には、公共の室内では、タバコを吸ってはいけない」
ということになった。
奇しくも、
「世界的パンデミック」
と呼ばれた禍下での施行だったことで、それほど世間では話題にはならなかったが、基本、事務所では絶対に禁煙、飲食店は基本、前から禁煙が多かったが、今度は義務になり、今までは店に普通に灰皿が置いてあった、飲み屋、パチンコ屋なども、完全禁煙なので、灰皿撤去が義務となる。
どうしても、喫煙者を入れたい場合は、自費で、店内に喫煙コーナーを作り、国が定めた基準に合格しないと、喫煙所とは認められず、本当の完全禁煙となるのだ。
だが、そんな中でも、ルールを守らずに吸う連中がいる。
基本、表は禁煙ではないので、道を歩きながら吸ってみたり、駐車場に屯して吸っていたりと、
「正直、これでは何もならない」
という愚の骨頂な法律になりかねない。
正直、そういう法律の抜け穴を分かっている連中はいっぱいいただろう。喫煙者は、最初から、
「じゃあ、表で吸えばいいだけじゃないか? 店で吸えなくなったのは面倒臭いが、完全禁煙じゃないんで、表に出ればいいだけだ」
というだけのことだった。
だが、正直、その行動が、世の中を敵に回すのである。つまりは、
「俺たちはルールを守って吸っているのに、あいつらがあんなことをするから、俺たちまで白い目で見られる」
と、ルールを順守した愛煙家に、一番疎まれることになるのではないだろうか?
行きずりの死体
「自分一人が我慢することで、一歩間違えれば、まわり全員を敵にまわす」
ということと、逆に、
「自分さえよければ」
と考えることで、結局
「世間全体を敵にまわす」
ということにもなりかねないということは、発想の始まりは違っても結果が一緒になってしまう。
結果が一緒だということは、やはり、発想の始まり、つまりはきっかけというものも一緒だと言えるのではないだろうか。
それを考えると、SMの関係の二人も、
「近い将来、別れる」
ということを、どちらかが、少しでも感じると、危ないのではないだろうか?
二人は限りなく別れるように近づいていることをオンナの方は分かっていて、男はただ今のところ、
「言い知れぬ不安」
というものに苛まれているのかも知れない。
ただ、この思いが一気に、相手に対して冷めることになるのだとすると、別れは本当にすぐそこに来ている。もちろん、それぞれの身勝手な考え方でしかないのだけれど。
そんな二人は、車の外に感じた違和感を、オンナは怖いと思いながら、表に出てみた。
少し遅れて男も出てきたが、その差が微妙だったことで、もし誰かが見ていたとすれば、
「男が先に出てきた」
と証言するかも知れない。
そんな状況だったのだ。
確かにそこに誰かがいたということは、二人には分かっているようだった。
男の方とすれば、
「別にみられたっていい」
としか思っていない。
そして、女に対しても、
「こいつだって、見られることで興奮するんだから、別に見られたとしても、気には市内だろう」
と思っていた。
しかし、女の方ではどうであろうか? 見られても平気だというのは、
「見られるというシチュエーションが確立している時」
という、条件付きの露出だといってもいいだろう。
まるで、運動会などで、予行演習を行うようなものではないか。男の方は、そんな予行演習を極端に嫌っている方だった。
「ありのままを見せればいいんじゃないか? それができないのなら、開会式なんてやめればいい」
というくらいに、性格的には、
「竹を割ったような性格だ」
と言えるのではないだろうか。
授業参観など、先生には最初からシナリオがあり、その通りにやっているだけで、
「生徒も先生も、演者にすぎない」
ということになると、
「一体何が楽しいというのだろう?」
ということになるのだ。
だが、女の方とすれば、
「いくら露出狂の気があるからといって、現実的に見ず知らずの男に見られるというのは、実に恥ずかしいことだ」
と言えるのではないか?
だから、シチューションも、最初からシナリオがあってのこと、一種のコンセプトとしての、納得がいくことでなければ、怖い。
そんな思いがあるために、急に男が、露出に自信を持ったりすることが、余計に怖いのだ。
男としては、
「俺だけに、こんな特殊性癖があり、今までずっと隠してきたのに、似たような人が現れて、それが女性だということ」
その思いが、男を増長させ、その増長がそのままS性だと思わせ、大きな勘違いを生むことになる。
これは、近年の犯罪と性癖に結びつくことと似ているのではないだろうか?
というのは、いわゆる、
「ストーカー」
である。
作品名:合わせ鏡のような事件 作家名:森本晃次