合わせ鏡のような事件
それも、民間企業間で、N鉄が今まで、自分たちの独裁体制を築くために、どれほどのことをやってきたか。人に言えないような、
「どんなあくどいことだって、いくらでもやる」
というような体制から、のし上がってきたのだ。
そもそも、それくらいの気概がなければ、これまであれだけの不況があって、生き残ってこれなかっただろう。
昔だったら、
「N鉄の最大のライバル」
と呼ばれた企業も、不況の混乱で、あっさりと、吸収合併することに成功していた。
そういう意味では、
「これまでの不況のたびに、独裁色を強くしてきた」
ということで、N鉄にとって不況というものは、
「追い風」
でしかなかったということであろう。
だから、民間には、N鉄に逆らうなどというところは残っていない。
「県下でのナンバー2だった企業ですら、N鉄にあっさりと飲み込まれてしまったんだからな」
といわれるほどだった。
「N鉄なんて」
と、心の底では思っていても、どこも口にはできない。
これは、F県の民間の実態であり、行政もその実態に合わせなければやっていけないという状態になっていた。
行政側からも、民間でも、
「もう、すべてが手遅れだ」
と思っていることだろう。
「F県というのは、不治の病における末期の状態で発見されたようなものだ」
と言えるのではないだろうか?
そんな世の中において、N鉄というのは、
「不治の病における、末期状態」
なのかも知れないが、手術をして取ってしまうと、確実にその場で死んでしまうという、アンタッチャブルな世界だと言えるだろう。
表から見ると、分からないが、F県は、
「前に進んでもだめ、後戻りもできないという、真っ暗闇の中にいるか、あるいは、風邪が強い、吊り橋の上で、身動きのできない状態で、落ちるのを待っているしかできない」
というそんな状態の中にいることを、どこまで自覚できているというのか。
N鉄が、不治の病だというのであれば、そのN鉄を生み出したのは、社会なのかも知れないが、それを受け入れ、二人三脚でここまで発展してきたF県、F市に責任はないのだろうか?
いや、そんなことはない。
ただ、いまさら責任問題を語っても仕方がない。
「N鉄とは、一蓮托生だ」
と思って、共生の道しかないのだ。
それは、N鉄の方でも思っていることなのかも知れない。
そんなN鉄の推薦で、工事は進んだ。ほぼ予定期間に遅れることもなく、大きなトラブルもなく、無事に工事を終えることができたのは、N鉄にとっても、行政側にとってもよかったことであった。
N鉄がうまく立ち回ったのも事実だし、行政側も、うまく協力体制が築けたことで、数年で、土手が出来上がった。
その土手は、簡易ではあったが、第二段階として、整備も考えられているようだった。
とりあえず出来上がった、その土手の前には瓦があり、河原自体はほとんど整備されていない。
整備しても、そこで何かができるわけでもなく、作れるとすれば、遊歩道くらいであろうか。
ただ、ここを遊歩道にするという計画も持ち上がっていて、その整備のために、少し区画整理のようなこともされていた。
そのために、ところどころビニールシートが張られていたが、その途中には、すすきのような雑草が生えていて、なかなか見にくいのだが、ところどころ、昔整備された道が残っていた。
もちろん、舗装などされていない道で、たぶん、自転車などで通れば、デコボコを感じるのだろうが、そんな道を歩いていくと、その先に見えてきたのは、鉄道、つまり、N鉄の鉄橋の下だった。
高架下は、以前には、ホームレスが、テントのようなものを張って、数人が生活をしていたが、今は見ることができない。たぶん、土手の工事がうるさすぎて眠れなかったことと、工事の人たちから、立ち退きを言い渡されていたからなのかも知れない。
どちらもあるのだろうが、ホームレスがいなくなったといっても、高架下に何か工事が行われるわけではなく、ホームレスが立ち退いた分だけ、スペースが余ることになったのだ。
それほど広いスペースではないので、子供たちも近寄ることもない。しかも、親や先生から、
「川の近くの危険なところに近づいてはいけません」
といわれていた。
理由は、
「何かあっても、助けることが困難だから」
といわれれば、さすがに子供でも怖くて近寄ることはできないだろう。
ただ、このあたりは、車が入ることができるだけのスペースはあるので、昼など、ここで営業が昼寝をするのにちょうどいいようだった。
高架下なので、太陽を少しでも防げるというのがよかった。
ただ、音がうるさいので、耳栓だけは必須であったが、それは仕方のないことだったのだ。
昼間は営業車が、
「時間調整」
にやってくるが、夜になると、アベックがくるようだった。
車の中で、普通に話をしているカップルも多く、ただ、リクライニングを倒して、キスくらいはあるだろう。
「さすがに、こんなところに、人なんかこないさ」
ということで、それくらいは普通にあった。
まだ夕方などの時間は、さすがに、いくら人が寄り付かないとはいいながら、それ以上のことをするカップルもいなかったが、日がどっぷりと暮れていれば、少々大胆なカップルも出てくるというものだ。
「ラブホテルにでもいけばいいのに」
と思うだろう。
別に彼らは、
「金がもったいない」
ということで、ラブホに行かないわけではない、
「もし、誰かに見られたら、どうしよう」
という、スリルの中で、燃えるカップルだったのだ。
いわゆる、
「露出狂」
という一種の変態なのだろうが、中には、本当に覗かれていたとすれば、それどころではないと思う人もいただろう。
男は、
「覗かれるくらい何でもない」
と思っていたが、オンナも口では、
「その方がスリルがあるわ」
といっていても、いざ覗かれているのが分かると、急に怖気づいて、
「私は、もう嫌」
といって、あれだけ、男に同調していたくせに、
「もう、私はあなたにはついていけないわ」
とばかりに、豹変する女もいることだろう。
第一の殺人事件
それは、確かに仕方のないことなのかも知れないが、男としては、たまらない。そんな時、ちょうど、それを彷彿されるようなことがあった。
夜のとばりは下りていて、まわりには街灯などもなく、明かりは一切ない中で、一台の車が、高架下で小刻みに揺れていた。
上を電車が通ると、窓から漏れてくる光で、中の様子が少しだけ分かってくるのだったが、一組のカップルが、まぐわっているのだった。
少しだけ、切ない声が聞こえてくるが、それも、表の虫の声でかき消されているようだった。
時間としては、八時を少し回ったくらいだろうか。夏至の頃であれば、まだ少しくらいは明るいかも知れないが、秋も少し深まってきた、10月中旬というと、すでに、真っ暗になっていた。
秋分の日ですら、過ぎているのだから、すでに、昼よりも夜の時間の方が長いのだ。まだまだ月もきれいに見える時期、飽きの虫の声を耳を傾けるのも、風流な季節だった。
作品名:合わせ鏡のような事件 作家名:森本晃次