合わせ鏡のような事件
というだけで、市長を続けられているだけの男だった。
県知事もそうだった。まあ、県知事くらいであれば、基本、何かないと表に出てくることはないだろう。どちらかというと、県庁所在地の市長の方が知名度は高い気がする。
ただ、今回の防波堤工事に関しては、市だけではなく、県の方も関わっている。
「県と、市と、N鉄の共同による建設工事という触れ込みであった。
基本的に、計画全体を立案するのが、県の役割で、工事が始まっての、責任部署としては、市が前面に出ることになる。
そして、裏方や、実際の工事にかかわる業者の選定、その他の民間とのかかわり全般を、N鉄が行うのであった。
元々、市のような行政に、民間をまとめるなどできるはずもない。絶対に、そこには大きな民間企業が関わることになるだろう。
「F県であれば、N鉄」
というのが、暗黙の了解であり、それがわかっているからこそ、一見、N鉄ではない企業がトップにいても、
「N鉄がどこかで関わっているな」
と、県民、ほとんどが分かっていることだろう。
いったいいつ頃から、F県での独裁になったのか分からないが、少なくとも戦後からであることは間違いないようだ。
それだけ長い間に君臨してきて、これまでの数度にわたる不況を乗り越えられたのも、
「N鉄とともにあったからだ」
と思っている人も少なくないだろう。
それだけ、F県では、
「n鉄神話」
なるものがあり、他の県と同じところもあれば、F県独自というものもある。
どちらかというと、F県独自の方が強いようで、他の県から見れば、一種異様に見えるようだった。
他の大都市は、もちろん、看板となる企業はあるだろう。だからと言って、どこかの政府のように、
「一党独裁」
というわけではない。
もし、そんなことをすれば、県から潰されかねない。
「看板企業として、君臨すれど、統治せず」
とでもいえばいいのか、独裁というのを嫌う傾向にある。
なぜなら、
「一企業独裁」
ということが前面に出てしまうと、
「田舎の県」
というレッテルを貼られてしまう。
そんなことを考えていた。
昔からの伝統のある県で、ここまで、ずっと、
「日本有数の大都市」
といわれているところが、いまさら、
「田舎の県に落ちてしまった」
などと自分たちの代で言われることを、自分の不名誉になると思うことで、行政側誰もが必死になって、
「一企業独裁を阻もう」
とするだろう。
それは、他の民間企業も同じで、ベスト5に入るような他の企業も、行政と考えは同じだった。
そういう意味で、
「包囲網」
と気づき、独裁を防ぐための、
「影での同盟」
が成立し、絶えず、まわりから監視されることで、表に出ることができないようにしていた。
そして、二段構えとして、
「もし、何かのはずみで表に出られてしまった時、いかに団結して、出る杭を打つかということも計算している」
というものだった。
定期的に、意志の疎通を図るための、企業会議を行っていた。
そこで、行政側の影の組織である、
「一企業息災そふぃグループ(仮)」
というものを、分からないように設立していて、彼らが、その会議に、
「アドバイザー」
という立場で、参加しているという形をとっていた。
幸いに、誰から怪しまれることもなく、推移していた。実に静かに、水面下で行動しているのだった。
そんな組織が、大都市にはほとんど存在しているが、F県にはなかった。
「そんなもの作って、N鉄から、今後一切の支援を受けることができなくなると、F県も、F市も立ち行かなくなってしまう」
という、N鉄は、完全に、F県にとっての、
「アキレス腱」
であったのだ。
切断されると、致命的であり、復帰できても、前のようにはいかない。大規模な改革という大手術が必要になるのだ。
そんな手術をされると、トップの総入れ替えは免れないだろう。
もちろん、
「責任を取る」
というのは当たり前のことだが、
「責任をとっての、引責辞任」
というのと、
「企業からの信認が得られないということで、トップを入れ替えられる」
とでは、かなりの違いがある。
「引責辞任であれば、責任の範疇でのことなので、自分でも納得することができるが、まわりの企業からということであれば、引責辞任のように、県民に対するけじめではなく、企業に対しての忖度からのやむなき辞任ということになり、到底承服も、納得もできるものではない」
と言えるだろう。
それが、今の、F県というところの立場であった。
F県というと、日本を地方で区切った中でも、代表的な県であり、今では少し人口が減ってしまい、自慢できなくなってしまったが、つい最近までは、日本でも、数か所しかない、
「100万都市が、2つある県」
ということで有名だったのだ。
人口が100万人を切ったとはいえ、県庁所在地でも、これだけの人口がいるところはそんなにもないと言えるほどだ。
逆にいえば、
「これだけの人口がいるのに、県庁所在地じゃないなんて」
ということになる。
海を挟んで二なるが、境を接している隣の県の県庁所在地よりも、相当な開きがあるくらいである。
「隣の県に、移れば、こっちが県庁所在地になることだってできるんだろうけどな」
と現実味はないかも知れないが、ありえないことではない。
ただ、現実味がないだけに、真剣に考えることも難しいだろう。
現実味というものは、達成できなければいけないというものでもない。
ただの目標で終わってしまうことが分かっていても、そこから始まるものもある。そんなことを考えていると、逆に、
「N鉄に、逆らえない自分たちが情けない」
というストレスがジレンマに変わり、トラウマになってしまうこともあるだろう。
だが、一旦トラウマになってしまうと、気持ちの奥にしまっておくこともできる。これは、一種の慣れのようなものであり、言い方は悪いが、
「惰性」
といわれても仕方がないだろう。
しかし、
「長いものには巻かれろ」
という言葉もある。
生き残るためには必要だということなのだろう。
だから、N鉄とは、よくも悪くも、仲良くしなければいけない。
下手にN鉄を追い落として、N鉄の力が弱まってしまうと、今度は、自分たちが、その時初めて、
「N鉄とは、一蓮托生だったんだ」
ということを思い知らされ、落ちていくN鉄に足を引っ張られ、助けてくれる者もいないまま、アリ地獄の穴に落ちていくということになるだろう。
落ちていく時は、もうすでに、
「大都市の自治体」
という影はなくなっていて、落ちていくものをまわりは、冷ややかな目で、
「ああ、また、どこかのバカがアリ地獄に巻き込まれたんだな」
としか思わないだろう。
当然、助けようとはしない。下手に手を出すと、自分も一緒に吸い込まれるだけで、
「ミイラ取りがミイラになる」
というだけで、誰も助かるわけではない。
それを、一般的に、
「犬死」
というのだった。
F県、F市、それぞれに、N鉄に逆らえないのは、他の民間企業が、まったく頼りないからでもある。
作品名:合わせ鏡のような事件 作家名:森本晃次