小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

合わせ鏡のような事件

INDEX|18ページ/21ページ|

次のページ前のページ
 

 もちろん、そのマンガが、アニメ化された時に見たりしたこともあり、普通に楽しめたが、
「それとこれとは別のことだ」
 と言えるのではないだろうか?
 それを思うと、探偵小説というものが、今の世代の人には響いていないのだろうと思えてならなかった。
 そんなことを考えていると、やはり、今の時代の探偵は、
「それほど権力を持っているわけではない。いわゆる民主警察」
 というものに対しても、その力を鼓舞することができないということは、一番大きな原因としては、
「時代背景と社会の構造」
 というものが大きいのだろう。
 昔は、
「大東亜戦争」
 と呼ばれる、日本がひっくり返るだけのことがあったのだ。
 何と言っても、天皇中心の、
「立憲君主国」
 だった、大日本帝国が崩壊し、占領軍による民主化で、
「民主国家」
 という日本国ができあがったのだから、それも当然のことである。
 父親が探偵であることは、もし、警察が、梶原のことを捜査線上で何か怪しいと思ったのであれば、調べればすぐに分かることである。
 さすがに警察も今の時点で、いくら、
「第一発見者を疑え」
 という言葉があるとはいえ、そう簡単には考えないだろう。
 まずは、初動捜査。証言を集めることと、現状の証拠を集めることが大切であろう。
 もちろん、父親が探偵だからと言って、梶原が警察捜査について精通しているわけではないが、普通に考えれば分かることである。
 それに、ミステリーが好きで、本を読んだり、テレビドラマで見ていたりすると、少々のことは分かるというものだ。
 だから、第一発見者に対して変な思いを抱かせるようなことはないだろう。
 しかし、今回、一人の捜査員が、やたらと気になっていた。質問がしつこいというのか、一つのことにやたらとこだわるのだ。
 その刑事は、他の刑事から、
「片倉刑事」
 と呼ばれていた。
 見るからに刑事っぽい感じだが、どちらかというと、昭和の刑事のようで、
「タバコをふかしていれば、似合いそうな雰囲気だ」
 と言えるのではないだろうか?
 昭和といえば、刑事ドラマなどでは、
「タバコをふかしている刑事は格好いい」
 というような伝説があった。
 今では、とんでもないことだが、取調室には、タバコの吸い殻が、溢れんばかりになっているなど、当たり前のことだった。
 さすがに、取り調べを受けている人間が勝手に吸うことは許されないだろう。刑事が、
「吸うか?」
 といって差し出したものを吸う分には問題ないが、勝手なことはできなかっただろう。
 しかし、今は、刑事が差し出すことも許されない。
 昔であれば、留置されるようなことがあれば、
「取調室での、かつ丼」
 というのが定番であったが、今ではそんなことは、
「自白の強要」
 に当たるのか、それとも、何かのコンプライアンス違反になるのかは分からないが、確か禁止ではないだろうか?
 昭和の時代の取調室というと、密室であった。途中から、扉を開けておかなければならなくなったが、それは、昔のような、拷問に近い形での自白強要があったからだろう。
 特に、首根っこを掴んで、照明を目に当てたり、本当にあったかどうか分からないが、手のひらや甲に、タバコを押し付けての、まるで、
「根性焼き」
 のようなこともあったかも知れない。
 さすがに、戦争中などにあった、
「特高警察による取り調べ」
 というのは、言動を逸するようなものだったという。
「爪を剥いだり、水の浸かった洗面器に顔を突っ込ませて、窒息寸前に追い込んだり」
 などと、今では信じられないことが平気で行われていたのだという。
 戦争中ということなので、今から80年前くらいのことではないか? それを思えば、
「時代の流れというのは、あっという間だが、その激しさはもっとすごい」
 と言えるのではないだろうか?
 急流の中で、グルグル回転しているのが、時代の流れと、その流行というものであり、その捻じれの発想が、
「タイムパラドックス」
 なのかも知れないと感じるのだ。
 警察というところは、こんなにも、いろいろ変わっているのに、その体制というのか、組織そのものは、旧態依然のものであり、まるで、
「封建制度を、科学や医学が発展した今の世の中でやろうとしているようなものだ」
 と言えるだろう。
 そんな世の中の治安を守っているのが、警察であるということを考えると、一抹以上の不安が漲ってきても、仕方のないことであろう。
 警察の中にも、いい人もいれば、悪い人もいる。
 その悪いという定義もどこなのかというのが難しかったりするだろう。
 相手が犯人と分かっているのであれば、勧善懲悪の精神がある刑事がいいのであろうが、まだハッキリしない相手を犯人と決めつけて、冤罪に持っていったりすれば、それは、犯人を逮捕するということよりも、もっと最悪である。
「市民の平和を守る」
 という警察が、冤罪を生むということは、
「一人の人間を殺してしまう」
 というのと同じことで、
「殺人罪」
 に匹敵するのではないだろうか?
 どこまで警察が、冤罪というものを恐れているか、人によって、そしてその警察署によって温度差はひどく違うものであろう。
 最近では、コンプライアンスというのも、一般企業では厳しい。本来なら公務員である警察も、厳しくてしかるべきなのだろうが、果たしてどうなのか?
 刑事課などの凶悪犯罪を担っているところであれば、そう簡単にはいかないだろう。
「犯人を追い詰める」
 ということでは、きれいごとばかりではいかないのも事実。
「悪を憎む心」
 というのが刑事には大切なのだろうが、冷静な目を失ってしまうと、冤罪を生むというジレンマに陥ってしまう。
 そして、一度間違いを犯すと、それを取り戻すことは容易ではなく、何と言っても、自分が、苦しむことになる。
 トラウマになってしまうと、それまで簡単にできていたことができなくなり、目の前が真っ暗になってしまうような錯覚に陥ることだろう。
 そうなってしまうと、自分がどこにいるのかもわからなくなり、その問題が大きく立ち塞がってくる。
「警察が、果たして正義なのだろうか?」
 と、今まで考えてはいけないとおもっていたことを考えてしまうと、どこまで行っても収拾がつかないと思うことだろう。
 警察という大きな組織を一括りにして考えることと、
「一人の刑事」
 という考えを持って、それぞれから見ると、見ている限り、
「相対するものではないか?」
 と思えるのだった。
 警察組織は、完全な縦割り社会。個人一人一人を考えるわけにはいかない。
 もっとも、これは、警察に限ったことではなく、他の民間会社でも同じことなのだが、特に警察の捜査ともなると、その人の個性も必要になってくる。
 そうはいいながら、捜査本部ができて、何人たりとも、捜査本部で決まった方針を曲げることは許されない。管理官であっても、別の人に変えられてしまうということが実際にあったりするのだった。
 そんな中にあって、この片倉刑事というのは、どこか、他の刑事と違っているように思えてならなかった。
作品名:合わせ鏡のような事件 作家名:森本晃次