合わせ鏡のような事件
もちろん、時計の時間が狂うということはあるのだろうが、本当の時間、つまり、万人に共通の時間が狂うことはない。(もちろん、時差というものは別であるが)
しかも、それぞれに規則的なスピードで回っている。
「秒針が一周すれば、分針が、一目盛り進み、分針が一周すれば、短針が、5目盛り進む」
つまりは、0から12までの数字を繰り返していき、一周すれば、繰り上がる形で時というものは刻まれていく。
それが、地球の自転、さらには、公転というものに結びついているということになるので、ここは天文学だと言えるだろう。
しかも、日付が重なっていくと、月になり、年になる。それが、歴史というものに繋がってくる。
さらには、生物には寿命があり、さらには、季節によってさまざまな生態系があり、太陽の向きによって、生態系も変わってくるのだから、時間が、生命に及ぼす力も計り知れない。
そういう意味で、生物学も、時間という概念とは切っても切り離せないものだと言えるのではないだろうか?
ただ、時間ということで一番の身近に感じるのは、物理学ではないだろうか?
「タイムマシン」
という発想、さらには、
「タイムパラドックス」
「パラレルワールド」
などと言った、時空と呼ばれるものは、
「時間と空間の発想」
ということになり、それぞれにねじれが生じることから、タイムトラベルが可能になったり、
「パラレルワールドの存在を証明することが、タイムパラドックスを証明するための力になる」
ともいわれている。
そこには、
「無限」
という発想と、
「限りなくゼロに近い」
という発想が考えられるだろう。
数式や公式と呼ばれるものの中で、一番厄介な考え方、この二つである。
「無限」
というものを考えるうえで、
「一つの数字を同じ数字で割った場合、求められる解は、1でなければならない」
というが、
「無限を無限で割ると何になるかというと、その答えは無限に存在する」
ということである。
いくつから上を無限というのかは分からないが。ある程度から上、たぶん、人間が認識できるところまでが有限であり、それ以上を、無限という言葉で表すということでしかないのではないだろうか?
また、
「限りなくゼロに近い」
という発想は。
「整数から整数を割った場合、そこまで言っても、ゼロになることはない」
という発想である。
一億分の一であっても、決して。ゼロではないということであるが、この発想は、
「合わせ鏡」
であったり、
「マトリョシカ人形」
などの発想から出てくるものだった。
合わせ鏡というのは、自分の左右、あるいは、前後に鏡を置き、そのどれかの鏡を見た時、まずは正対している自分が写る。すると、今度はその後ろに鏡があり、その鏡には、後ろ向きの自分が写っている。さらに、その鏡を、目の前の鏡では捉えているのであって……。
というように、どんどん小さくなってはいくが、理屈としてなくなることはないのだ。
これが合わせ鏡の発想であるが、マトリョシカ人形も似た発想である。
ロシアの民芸品であるマトリョシカ人形は、入れ子になっているのが特徴で、
「人形が蓋になっていて、それを開けると、今度は少し小さな人形が出てくる。そして。またそこを開けると、またしても、人形が出てくる……」
という形であった。
その人形が、同じように、どんどん小さくなっていく。
これも、合わせ鏡と同じで、
「決してゼロになることはない」
という考え方だった。
最後はどんなに複雑化も知れないが、算数にしても、数学にしても、その基本というのは、
「一足す一」
から始まっているのだ。
答えは万人が分かっているように、二である。
三でもなければ、一でもない。だれもが知っている発想なのだ。
だが、
「それを証明しろ」
と言われてできるだろうか?
考えてみれば、
「限りなくゼロに近い」
という発想と似ているのだが、
「微粒子というのは、どこまで小さいものが存在しているのだろう?」
ということに似ている。
「この世に存在する物体は、必ず、それ以上分割することができないという微粒子でできている」
ということである。
これは、合わせ鏡の終点を探すようなもので、
「存在しているものに、無限というものはありえない」
ともいえる。
だから、人間が無限と呼んでいるものは、
「それ以上分離することができるであろうが、それを証明することができない」
といって、今の段階で証明できているものだけを有限とし、それよりも小さいものを、便宜上、無限と呼んでいると言えるのではないだろうか?
だから、
「無限というものは、無限に存在している」
というような、まるで禅問答のような言い回しになるのかも知れない。
探偵業
梶原は、いつもまわりから、
「理屈っぽい」
といわれていた。
子供の頃からこんなことばかりを考えている少年で、よく小学生の時、算数の法則を発見して、先生に説明しては悦に入っていた。
子供ながらに、
「いっぱしの数学者気どり」
だったのだ。
だが、一時期、数学が嫌いになった時期があった。それは中学の二年生の頃で、なぜかといえば、
「小学校の時にあれだけ、必死に考えて自分で法則を見つけた」
と思っていたことを、中学2年せいくらいで、まるで当たり前のごとくの公式を覚えさせられた。
確かに、著名な数学者が、それらの公式を思いついたのであろうが、せっかく一生懸命に発見したことを、いとも簡単に、
「公式だから、暗記して、問題が解けるようにしておけよ」
と先生はいう。
つまりは、
「公式を使えば誰にでも解ける。その術を中学生では養ってほしい」
というものであり、そこには、想像力なるものは皆無だといってもいいだろう。
それを考えると、
「算数の方が自由でよかった」
と思うのだ。
「公式に数字を当てはめて、答えが出せればそれでいい」
それが数学という学問で、そこに、発想力も空想力の欠片もなかった。
「これのどこが学問だというのか?」
とまで考えさせられたのであった。
そんな学問の挫折があったことで、中学二年生の頃から成績は一気に下降気味になった。まわりでも、同じ時期に落ちこぼれていく連中がいたが、
「俺と同じなんだろうか?」
と気になっていたが、別に人は人、いちいち気にすることもないだろう。
そんなことを考えていると、
「数学は面白くない」
と思い始め、唯一、
「面白いと思っていた学問」
を嫌いになったことで、勉強が一気に嫌いになった。
特に、数学に深いかかわりがあると思っている、
「物理学」
「天文学」
「歴史」
などというものは、典型的に嫌いになり、まったく興味も何もなくなったのだ。
さらに、他の学問でも、数学的知恵を有しないとできない学問は、勝手に成績が落ちていく。
まるで、
「生態系」
が壊れていくかのような感じだといってもいいのではないだろうか?
そんな梶原が、また数学を好きになったというのは、大学に入ってからであり、その時に、
「限りなくゼロに近い」
作品名:合わせ鏡のような事件 作家名:森本晃次