小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

忌み名

INDEX|4ページ/22ページ|

次のページ前のページ
 

 昔の殿様が、城を作ったりした時、その責任者を、毒殺したりしたという話を聞いたことがあった。
 秘密の抜け穴など、すべてを知っている設計者や、重要な人物は抹殺しなければ、
「いつ秘密がバレるかも知れない」
 ということになるのだ。
 いくら、暗殺者を暗殺する役目とはいえ、悪に関わった人間には、生きていられては困るのだ。
 つまり、
「一番あくどいのは、表では正義の仮面をかぶっている連中だ」
 ということを、どれだけの人が知っているだろうか?
 刺客とでもいえばいいのか、あるいは、剣客と呼ばれる人たちは、幕末の京都などには、たくさんいた。
 日本が開国したことで、最初は、
「攘夷だ」
 ということで、
「外国を打ち払う」
 ということを目的にして、幕府が結んだ、通商条約であっても、
「そんなものは関係ない」
 ということで、各地の武士が荒れ狂っていたりした。
 そもそも、平和な世が260年近くも続いてきたのだ。そのために、いくら身分制度で一番上の階級にいるとは言え、武士というのは、下級武士になればなるほど、その日の食事も困るくらいだったのだ。
 だからこそ、
「戦でも起これば、自分たちの出番だ」
 ということになる。
 しかも、
「戦になって勝つことができれば、褒美だってもらえる」
 というものだ。
 だから、この世の中で戦がないことにうずうずしている武士もいただろう。
「武士は桑子と高楊枝」
 などというのは、幕府の緊縮政策の中での、
「贅沢禁止令」
 などに対しての、
「武士の誇りを守らせるため」
 という意味で使われたのか、あるいは、
「武士にいうことを聞かせるための言葉で、皮肉を込めて言われるようになったのか?」
 のどちらかであろうが、
 少なくとも、
「江戸幕府の財政が、次第に乏しくなっていった」
 ということを示しているのだろう。
 そんな体制であったが、世の中は戦もなく平和であった。ただ、財政がひっ迫していることで、その時々の老中や旗本などが考えた政策で改革をしようとするのだが、
「前任者のここが悪かったので、ここを変えて」
 というようにしていくと、一つ前の改革に戻ることになる。
 さらにそれが失敗すると、また、改革をその一つ後にすることになるので、結局、両極端なところを、いったり来たりしているだけで、一向に物価が落ち着くことはなく、結局、
「時代がまた古い時代に戻った」
 というだけで、世の中の人たちから、受け入れられるはずなどなかったのだ。
 そんな時代を逆走している間に、時間だけが過ぎていき、最期には、外国からの、
「艦砲外交」
 によって、無理やりに開国させらてしまうのだ。
 ただ、
「最初は外国を打ち払う」
 ということを目的にしていた連中が、世界の情勢、特に清国のように、諸外国から食い物にされたり、東南アジアの国のように、植民地化されてしまうのを目の当たりにすると、
「外国の脅威」
 というものをひしひしと感じないわけにはいかないだろう。
 だからこそ、
「尊王攘夷」
 つまり、
「頼りにならない幕府ではなく、天皇を敬って。攘夷を実行しよう」
 という運動から
「尊王倒幕」
 という発想になった。
 つまりは、
「幕府を倒して、天皇中心の中央集権国家を作り、外国と渡り合えるくらいの国にする」
 という考えである。
 つまり、この時から、
「幕府に見切りをつけて、新しい政府を作る」
 という考えが芽生えてきたのだ。
 幕府はただでさえ弱腰で、このままなら、外国のいいなりになりかねないと思ったのだろう。
 その先鋒が、長州藩であり、薩摩藩だったのだ。
 そもそも、長州も薩摩も、
「攘夷」
 ということでも、その先鋒であった。
 だからこそ、打ち払い令によって、関門海峡を渡る船を砲撃した長州藩だったが、そのせいで、
「四国艦隊連合軍」
 から下関を占領されるということになった。
 その時に、外国の力をまざまざと知ることになり、攘夷派が一掃され、討幕派が台頭してくるのだった。
 薩摩藩は、
「生麦事件」
 の報復で、イギリス艦隊から、鹿児島を砲撃され、敗れたことで、同じように外国にはかなわないと悟ったのだ。
 だからこそ、仲が悪かった薩摩と長州であったが、坂本龍馬の説得と、利害関係の一致で、薩長連合が成立した。
 それにより、ここに、倒幕運動が現実化してきたのである。
 ここまでが、幕末のざらっとした歴史であるが、その頃の時代は、本当に暗殺などが横行し、志士同士が殺し合うなど、日常茶飯事だった。
 さらに、幕府用心の暗殺や、まだ残っている攘夷派を一層するために行う暗殺などが、世の中で蠢いていたのだった。
 特に京都などではかなりの暴動が起きたりして、問題化している。
 その裏で行っていた暗殺隊を率いていたのが、
「弘前家の先祖だ」
 だったのだ。
 弘前家の、一部の人は、政治に参画し、時代を動かしてもきた。
 ただ、それができるというのも、裏で動いていた人たちがいたからで、弘前家では、そんな先祖を決して粗末には扱わない。
 それが、弘前家の伝統だったのだ。
 そんな弘前家だったので、
「明治の元勲」
 として、明治政府の中枢に入っていた。
 さらに、陸軍、海軍が創設されると、いち早く政治の舞台から、軍の方に鞍替えしたのだ。
 そもそも、暗躍していた連中が活躍できる場面が、軍にはあった。初期の軍というのは、ひょっとすると、同じような暗躍していた連中が、軍を率いてきたのかも知れない。だから、統制も取れていて、軍としては優秀だったのだろう。
 元々の士族と言われる、
「江戸時代では、武士だった人たち」
 は、廃刀令があったりで、武士としての誇りも何もかもがなくなってしまった。
 そのため、西郷隆盛の、
「西南戦争」
 などというものを中心として、
「秋月の乱」
「萩の乱」
「佐賀の乱」
 などと、そのほとんどが、西日本に集中しているというのも不思議であるが、しかも、またそのほとんどが九州というのも面白いものである。
 そもそも、薩摩藩、佐賀藩、長州藩、土佐藩が、明治政府のほとんどの役職を独占しているのだから、それも無理もないことだと言えるだろう。
 それだけ、明治政府の政策に、政府の要人であるお膝元の武士というのが、どれだけ煮え湯を飲まされたのかということが分かるというものだ。
 きっと反乱軍は、
「幕府を倒す時は、自分たちが最前線で頑張ったのに、明治政府などになって、廃刀令などで、自分たちの居場所をなくされてしまうというやり方に、我慢ができないというのも、当然だ」
 ということなのであろう。
 それが、新政府の中での亀裂であり、一歩間違えると、新政府が瓦解してしまうことになるだろう。
 そのためにと、さらには、
「外国に追いつけ追い越せ」
 ということで掲げられた政策が、
「富国強兵」
 と、
「殖産興業」
 だったのだ。
「国を富ませて、軍備を整え、外国からの侵略に備える。そのためには、産業を興し、金を儲けなければいけない」
 という考えであった。
作品名:忌み名 作家名:森本晃次