悪魔のオフィスビル
白い手袋をした刑事が後から入ってきて、現状をゆっくりと見渡していた。発見者の男は、少し離れたところで、制服警官から、事情を聴かれているというところであろうか。
刑事は二人だった。
一人の刑事が、
「これは、正面から刺されているようですね。この血の付き具合や、凶器をそのまま抜き取らなかったところを見ると、出会いがしらで、刺したんだろうな」
と言った。
そして、それを聴いたもう一人が、
「そうかも知れませんね。でも、犯人は、ナイフなんか持っていたんでしょうね。凶器をそのままにして逃げたということは、相当慌てていたのか、それとも、自分の指紋が出ないと分かっていたからなのか、どっちなんでしょうね?」
と聞いた。
「そうだな、どちらともいえないが、出会いがしらで刺したのだとすれば、犯人は、ここに誰かがいるとは思っていなかったのか、それとも、何かこちらに入ってくる理由があったのかということなのかも知れないな」
と言った。
「そうですね。まずは、この被害者の身元と、目撃者を当たってみることにしましょうか? それには、まず、犯行時刻の大体を分かっていないとダメですよね?」
ということであった。
「それは、そうだ。鑑識に、そのあたりを確認してみよう」
ということで、二人の刑事は、鑑識の長の人に聞きに行った。
「ご苦労様です。鑑識さんとしては、初見としては、どんな感じなんでしょうか?」
と刑事に聞かれて、
「まあ、ここでは、ハッキリしたことはいえませんが、死因はやはり、胸を刺されても出血多量でのショック死というところでしょうか? ただ、刺し方はプロの仕業というわけではなく、刺し傷としては、素人の仕業ですね。たまたま刺したところが、致命傷に至る場所だったということで、言い方は悪いですが、被害者も苦しむことはなかったと思います」
というので、
「ほぼ、即死状態だといってもいいと?」
「そうですね。その通りですね」
と、鑑識は答えた。
「即死状態というと、これは、どうなんでしょう? 出会いがしらという感じにも見えるんですが?」
と刑事がいうと、
「私も、出会いがしらは結構可能性が高いと思いますね。ただ、凶器をどうして持っていたのかということになると思います。もし、出会いがしらだったとすれば、最初から手にナイフは握られていたと思ってもいいでしょうからね。ナイフを突き刺したまま、その場を立ち去ったのも、出会いがしらだとすれば、分からなくもないです。ひょっとすると犯人は、ナイフを抜き取ろうとしたのかも知れない。でも、もう一度ナイフを触った瞬間、気付いたのかも知れないですね」
というと、刑事が、
「何をですか?」
と聞かれて、
「ナイフを今抜き取ると、血がまわりに飛び散ってしまうということです。そして、自分が返り血を浴びてしまうということ。それを恐れてではないでしょうか? そうなると、このあたりはオフィス街ということもあり、早い時間だったら、人通りも多い。返り血を見られるとまずいというのもあったかも知れない。犯人は、着替えなど持っていなかった可能性もありますね」
ということだった。
「ということは、この殺人は、怨恨で死んだ人を恨んでいたので、刺し殺したというよりも、出会い頭に何かを見られたことで、刺し殺したということでしょうか?」
と刑事がいうと、
「その可能性は高いのではないかと思います。そう考えると、理屈も合うのではないですか?」
ということになれば、犯人は、何かの目的があって、このビルに侵入した。そこで、ナイフを見られたか何かで、怪しまれたのではないか。
「ひょっとすれば、取っ組み合いくらいになったかも知れない。そこで、思わず刺してしまったともいえるかも知れないですね」
と刑事がいうと、
「その可能性は低いかも?」
と鑑識がいう。
「どうしてですか?」
「争った跡がないような気がするんですよ。もし、相手がナイフを持っていたのだとすれば、刺された方は、もう少し身を守ろうとするはずですが、そんな感じはこの死体からは見受けられない。やはり犯人は、何か見られてはいけないものを見られたことで、とっさに刺してしまったのかも知れない。その場で騒がれても困ると思ったんでしょうね。ぼやぼやしていると、相手が冷静になって、大声を出して、人を呼ぶかも知れない。それも犯人にとって、許容できることではなかったんでしょうね」
と鑑識は言った。
「さすが、鑑識さん、するどいですよね。我々もそれを衝動捜査の状況判断ということで、大いに参考にさせていただきましょう」
というと、
「はい、私も大きく間違ってはいないと思っています。その裏付けを、もう少ししてみようと思いますね」
と言った。
刑事とすれば、
「これは、出会いがしらでの犯行で、殺意があったわけではない、ただ、犯人は見られては困る何かがあって、殺すしかなかった状況だったということなのだろう。決めつけはいけないが、初動捜査としてが、これで、裏付けを取ってみようと思う」
ということであった。
「一体、この男は何をしようとしていたんでしょうね?」
と一人の刑事がいうと、
「うーん、一番考えられるのは、空き巣ということではないだろうか? 特に今の時代は先般からの、パンデミックの問題があって、失業者が増え、さらに、行動制限から、オフィスビルが空き巣に狙われる可能性が大きいからな。この犯人もそれが狙いだったんじゃないだろうか?」
ということであった。
「空き巣ですか? 確かに最近は多いといわれていますね。ところでここのビルの警備はどうなっているんでしょうね?」
というので、
「どちらにしても、ビルの管理会社や、他のテナントの会社に話を聞いてみないといけないだろうね」
と言った。
少なくとも一人殺害された。この人は背広を着ていたので、このビルのテナントの中の人なのだろうが、まずは見元を知る必要がある。
「財布や、カバンなど、見当たりませんね」
と、いうので、
「犯人が持っていったということか? そこに何の意味があるというのだろう?」
と、刑事は頭を傾げていたが、ここに、確かに何か事件に重要なことがあったのだが、その時は誰も分かっていなかったのだ。
「だけど、おかしいですよね? この人がこのビルの関係者だったのなら、何も身元を隠すようなことをしなくてもいいはずなのに、わざわざ持っていくというのは、やはり、盗人の本能のようなものなんでしょうかね?」
というと、
「そうでもないかも知れないぞ。いくら何でも、人殺しまでしているんだ。本当に被害者の身元を隠す意思が働いているのだとすれば、持っていっても無理もないが、そうではないということになると、少し事情が変わってくる。もしそうなると、犯人と被害者は、顔見知りだったということも考えられるんじゃないかな?」
「ああ、そうか、その可能性は大きいかも知れませんね。顔見知りだから、殺す必要があったということかも知れない」