悪魔のオフィスビル
「じゃあ、犯人はあの扉にカギが掛かっていないことを知っていたんだろうか?」
と、日下刑事がいうと、
「どうでしょう? ただ、普通に考えれば、あの時間だから、カギは閉まっていると思うんじゃないですか? ただ、それを分かっているのだとすれば、犯人はカギを持っていたか、ロビーに誰かがいることを分かっていて、そして、出会いがしらを利用して、殺したという可能性もあるのかも知れないですね」
と辰巳刑事がいうと、
「じゃあ、君はあれを、計画的な犯行だというのかい?」
「というか、あらゆる可能性を考えて、もし計画的である可能性が存在するのだとすると、今のようなシナリオしかないような気がするんですが、いかがなものでしょうかね」
と、辰巳刑事が言った。
「うーん」」
といって、日下刑事は唸ったが、それは、疑っているっというよりも、そこまで自分が思いつかなかったのに、看破している辰巳刑事に敬意を表しているかのようだった。
「それにしても、このビルの中だけでは、被害者が誰なのか、分からないようですよね。これだけ、捜査しているんだから、ビルの会社の社員や関係者だったら、とっくに分かってもいいでしょう。ただ、しいていうと、会社の人間が黙っていると、他の会社の人には、分からないかも知れないですね、何しろ、このビルは、ワンフロアで一つのオフィスという感じですからね。エレベーターで一緒にでもならないと、普通は知らないでしょうね」
と辰巳刑事がいうと、
「それはどうだろうね。特に今は、パンデミックなどがあっているので、同じエレベーターには、なるべくたくさんの人が乗らないようにしているだろうからね。たぶん、多くても、3人までがいいところじゃないかな?」
と、日下刑事が言った。
「そうですね、今は、他の会社の人と、同じエレベーターには、基本的に乗りたくないでしょうね。特にこれだけ狭い敷地面積のビルではですね」
と、辰巳刑事は言った。
「ところで、私が気になっているのは、被害者が、あそこで死んだとして、誰か、得でもする人間がいないかということを、皆忘れているんじゃないかということなんだよ。もちろん、出会いがしらという意見が多いことで、事件性がそれほど大きくないと思う人もいるだろうが、もし、これが事件だとすると、そういう見方も出てくるんじゃないかと思ってね。犯罪捜査というのは、元来そんなものだろう?」
と、日下刑事が言ったのを聴いて、辰巳刑事は目からうろこが落ちた気がした。
「なるほど、まったくその通りですよね」
と、辰巳刑事は感心したのだった。
「だが、そのためには、まずは、本当に被害者が誰なのかということを検証しないといけない。だが、逆に、ここ数日の、特に被害者が死んでから、何か得をしたり、危ういところを助かったりした人がいないかというところから攻めるのもありなんじゃないだろうか?」
と、日下刑事は言った。
「そうですね。そのあたりを、テナントを調査している連中が分かっていればいいんですけどね」
と、辰巳刑事がいうと、
「それは難しいかも知れないね。何しろ、彼らは、まず被害者が誰なのかということを中心に捜査しているだろうから、まずは、俺の予感としては、きっと分からないと思うんだ。わかるのであれば、最初から分かっていることだろうし、、まさかとは思うが、まったく関係のない人ということはないのかな?」
という、とんでもないことを、日下刑事が言い出したのだった。
「それは、日下刑事らしからぬ言い方ですね。これだけ理論的に話を進めてきて、まるで、それらすべてを一度すべて崩してからの発想に思えるんだけど、どうなんでしょうね?」
と辰巳刑事がいうと、
「ははは、その通りだが、あらゆる場面を考えて、最期に原点に戻るというのが、私の経験からの捜査方法なので、気にしないでくれ」
と、日下刑事は言った。
「いえいえ、参考になります」
と辰巳刑事がいうと、
「これは、あくまでも、自分の考え方なので、人に押し付けてはいけないと思うんだけど、若い連中には、こういう考えもあるって時々話をしているんだ。パワハラにならない程度に、ほどほどにしないといけないとは思っているんだけどね」
と、苦笑いをしながら、日下刑事がいうのだった。
日下刑事と話をしていると、かなりの年上で、ベテラン刑事と話をしているような気がする辰巳刑事だった。
桜井警部補にも、かなりの信頼を置いているが、日下刑事とは、その信頼の種類が違う。
日下刑事は、かなり自分に自信を持っているようだ。
それは、桜井警部補も同じなのだが、
「身体の奥からにじみ出てくるように感じるのが、桜井警部補で、自分から公表するようにして、まるで自分を追い込んでいるように見えるのが、日下刑事だ」
といえるだろう。
どちらが、どうという比較ができるほど、自分を優秀な刑事だなどと思ってもいない辰巳刑事だったが、日下刑事とは、今回初めて組むことになる人だとは、到底思えないほどだった。
「ひょっとすると、桜井警部補の部下が自分ではなく、日下刑事だったら、本部にも負けないような、最強コンビができあがるんじゃないだろうか? それは、県警が誇るといってもいいくらいのコンビになるに違いない」
と、感じていた。
自分を卑下しているわけではないが、それだけ自分が、
「自分で思っているほど、全体を見ていないのではないか?」
と感じるのだった。
「日下刑事も、桜井警部補も、全体を見ている。それはきっと、自分に対しての気持ちの余裕がそうさせるのではないだろうか?」
と感じるからだった。
二人はそんなことを話しながら、辰巳刑事は、ぼんやりと、さっきまで捜査していたビルを見ていた、土手の横がすぐ川が横切っていて、その川をすぐ横に、鉄道の鉄橋があり、鉄橋横に、結構大きめの駅があった。
そこは私鉄の駅で、県庁所在地から最初の急行列車が停車する駅だった。駅はオフィスビルのような変則な建て方になっているわけではなく、ちゃんと斜面を切り取って、整備したうえで、駅ビルの大きなものを作っていた。だから、駅や、駅ビルを利用する人からは、このあたりのオフィスビルが、あのような、へんてこな形になっているなど、想像もつかないに違いない。
つまりは、
「表から見るのと、裏から見るのとでは大きな違いがあることから、裏からでは、表と違ったビルに入る可能性だってあるかも知れないな」
ということを感じた。
このことを、辰巳刑事は漠然としてしか感じなかった。
そもそも、辰巳刑事の目の付け所はいつもいいのだ。ただ、それが漠然と感じたことであって、そこから先を考えないことで、
「せっかく事件の真相に近づいているのに、分かっていないというのは、何ということだろう?」
ということになるのだろうが、本人は、
「知らぬが仏」
とでもいえばいいのか、分からずにいることで、やきもきすることもなかったのだ。
それがいいのか悪いのか、本人が分からないのに、周りが分かるはずもない。それを思うと、実に皮肉なことなのであろう。
そのことを考えたのは、川を挟んで向こう側の土手沿いに、このカフェはあったのだ。