悪魔のオフィスビル
「いまさら住宅街にできないからといって、オフィス街にしても、同じことなのではないだろうか?」
と言っていた人が多かった中で、最初から、そのあたりの理屈を分かっていたF市に事務所を持っていた中小企業のいくつかの会社は、即行で、K市に事務所を移転した。
最初であれば、いい土地を安く買うことができる。他の会社がK市の利便性に気づき、どんどん流入してくると、次第の土地の値段も上がってくるだろうし、いい土地もどんどん埋まってくる。
最初に借り受けた一等地の値段と、ある程度埋まってきた中で、駅から徒歩10分という中途半端な事務所の、坪当たりの家賃が、ほとんど変わらないということを知ると、どうなのだろう。
前の人が入った家賃を気にすることはない。
「今のどこが安いのか?」
それが問題だからである。
この街の事務所が充実し始めた頃は、確かに街の方では、次第に郊外に事務所を移転するところが多く、一種の、
「ドーナツ化」
が増えてきた。
「都心の一等地に事務所を構えるなど、経費の無駄遣いだ」
ということであった。
それくらいなら、郊外に他の会社と一緒になって、事務所を借りるなど、他にも方法はいくらでもあった。
そんな時代に、K市が誘致を行ったのは、非常にいいことだったのだ。
だが、今になって、F市の市長は、バカなことを始めていた。
都心部で、老朽化してきた建物を取り壊して、新たに、
「ダイナマイト計画」
などというものを打ち出していた。
これは何かというと、
「都心部でのオフィス街を充実させて、郊外に移った都心部の会社を呼び戻し、もう一度、かつてのような、オフィス街を築く」
というものであった。
そんなものに、市県民税が使われるというのに、どうして誰も文句を言おうとしないのかが不思議だった。
せっかく、安い郊外に事務所を構えて、今はうまくやっているのに、どこの会社が、高い都心部一等地に戻って来ようというのだろう?
よほど、郊外よりも値段が安いというのであれば、戻ってくるとこともあるだろうが、「そんないまさら」
というところであろう。
街に戻ってくるなど、完全なる、
「時代の逆行」
であり、
昔に戻そうとするなら、それだけの環境をまわりでしっかり整えておかないといけないのに、ビルを立て直したり、まわりに食堂街などを充実させるというだけでは、何になるというのか?
「実に浅はかで、バカな発想だ」
といえるのではないだろうか。
今までの歴史でも、旧体制にそのまま戻してうまくいったという試しはない。そのためには、それまでの体制を、完膚なきまでに叩き潰さないとうまくいかないだろう。
それが明治維新であり、それまでの改革で、何一つ成功した例があっただろうか?
「大化の改新」
しかり、
「建武の新政」
しかりである。
この二つは、とにかく、
「古い体制に戻す」
ということが基本になっているので、当然、そう簡単にはうまくいかないだろう。
「大化の改新」
は、蘇我氏の、
「諸外国と、一つの国に偏らず、諸国と対等に外交する」
というやり方に対し、改新側は、
「百済一辺倒の外交で、宗教も仏教よりも、かつての日本固有の国教のみを信じる:
という、前を見ない外交をするのだから、それはうまくいくはずがない。
せっかく、厩戸皇子が行った政治を、根底から覆そうというのだから、どこが、
「改新というのか?」
ということである。
律令制度がやっと軌道に乗りかかってきたのは、中大兄皇子の次の、天武天皇、持統天皇の時代であった。
ただ、それまでにどれだけの血が流されたか分かったものではない。それを考えると、
「大化の改新というのは、何だったのだろう?」
と言わざるを得ないだろう。
「権力を保とうとするために、まわりの人間を罠に嵌め、謀反人ということで、攻め滅ぼすのだから、やっていることは、実にひどいものだと言えるのではないだろうか。
「建武の新政」
というものは、鎌倉幕府が、元寇襲来の影響によって、蒙古を撃退した兵士に対して、褒美を与えることができず、それにより、封建制度が崩壊したことから始まる。
そもそも、封建制度というのは、領主が配下の土地を保証し、保証してもらった配下のものが、領主が戦争をする時、兵を出して、奉公するという関係を、
「封建制度」
という。
源頼朝が、坂東武者との契約からできたもので、それまえ、地方の武家や豪族は、京の貴族たちのために、奉公するような状態だったものを、鎌倉に武家政権を確立し、武士の世を築いたことが、封建制度の始まりである。
しかし、海外勢力から攻められ、撃退するのが精いっぱいだったことで、手柄を立てた部下に、与えられる土地などない。
普通であれば、戦って奪い取るはずの土地がないのだから、それは戦いに参加した武家の不満は高まるだろう。
何しろ、武家も戦いに際して、借金をしてまで戦に参加した人もいるくらいだった。
そうやって考えると、鎌倉幕府も、
「気の毒」
だと言えるかも知れないが、元の使者に対して行ったことを思えば、その後に攻められたことも致し方がないだろう。
「日本が、元の属国にならずによかった」
というだけで、その後の混乱、いわゆる内乱は、避けることのできないものだっただろう。
朝廷が、この時とばかりに、出てきた。
「とにかく、鎌倉幕府を倒す」
ということでは、一致団結したのだが、幕府を倒してしまうと、今度は、
「天皇中心の政治」
という、封建制度以前の政治改革を行おうとしたのだ。
いわゆる、中央集権の、専制君主の政治である。
要するに、平安時代までの政府にしようとするのだから、武士の世の中になっている中で、武士を敵に回して、どうして、天皇中心の政治ができるというのか?
確かに、天皇は絶対的な存在ではあるが、天皇を中心としてしまうと、まわりの貴族が幅を利かせ、昔に戻ってしまうことを、武士は嫌ったのだ。
当然、武士を敵に回して勝てるわけもない。そのため、
「南北朝」
などという変則な朝廷が出来上がってしまったのだ。
その時の南朝の天皇は、
「建武の新政」
を行おうとした後醍醐天皇であった。
足利尊氏も、幕府を開いて、武家政治を行おうとしたが、自分にとっての、
「左右の腕と言われる二人」
が、ずっと争いを続けていたことで、なかなか武家政治も固まらない。
室町幕府は、ずっとそんな感じが最後まで続くことになる不安定な幕府だった。
そもそも鎌倉幕府も、将軍であるはずの源氏が三代で滅亡し、そこから先は執権である。北条氏によって政権を保っていたのであり、しかも、北条政権樹立のために、どれだけの御家人が粛清されたであろうか?
それを考えると、包茎制度が確立されたとすれば、
「検地」
「刀狩」
などを行って、武家制度を名実ともに、
「天下統一」
せしめた、羽柴秀吉の時代からだと言えるのではないだろうか?
徳川幕府も、その秀吉の政治を基盤として出来上がったものなので、そういう意味では、農民から出自した秀吉が、一番最初に武家制度の根本を確立したということは、皮肉なことだと言えるのではないだろうか。