悪魔のオフィスビル
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年8月時点のものです。今回も、昔のテレビ番組で似たようなものがあったが、参考程度に見ていただければいいのではないかと思います、やはり、昭和のよき時代というのは、懐かしいものですね。とにかく、作品は、フィクションだと思って見てください。
ダイナマイト計画
F県K市では、元来、あまり事件らしい事件は発生していないと言われてきたが、ここ数年の世界的パンデミックや、経済不安などから、空き巣、強盗などの犯罪が増えてきて、治安がかなり悪い街になっていた。
ここは、隣が県庁所在地のF市という大都市近郊ということで、ベッドタウンのように思っている人が多いかも知れないが、中心部は、住宅地というよりも、会社が多く存在している。
雑居ビルのようなところに、小さな事務所が多いことから、小さな会社だったり、中小企業の、営業所的なオフィスというのが、結構あるようだった。
駅前には、さすがに大きなビルも多いので、ワンフロアーブチ抜きの事務所では、50人くらいの従業員を抱える事務所もあった。
それでも、全体的に言えば、一つのオフィスに、10名前後くらいの事務所が多く、小規模事務所ともなると、5人程度のところも少なくはなかった。
駅前を中心に、半径500メートル程度というから、少々の範囲がオフィス街であり、それに伴った食堂街なども充実していて、それなりに、街全体が活性化されていたのである。
それでも、F市ほどの大きさはなく、元々、このあたりの開発は遅れていた。
インフラの問題があったのか、本格的な開発は、20年くらい前からだったのだ。
このあたりは、元々地主と呼ばれる人たちが結構いて、以前は、土地を持っているだけで、金になっていたが、バブルが弾けたことで、土地の値段が一気に下がり、ビルを建てて貸し出すなどしないと、運営が難しくなってきたのだった。
当時は、企業の方も、それまでの、
「事業拡大政策」
から一転して、縮小傾向にあった。
そのことから、事務所も
「小さくコンパクトなオフィス」
というのが主流になってきて、そのせいで、細かい事務所がたくさんできてきた。
そういう意味で、ビルも、
「縦長」
という形が多くなってきた。
その方が、土地を有効活用でき、その隣に、立体駐車場を設けることで、社用車だけではなく、一般の人の車も駐車できるようにすると、休日などでも、満になるほどの盛況な状況になるのであった。
そんなK市も、もっと古い時代というと、ちょうど、占領軍の駐屯地があったのだ。
というのも、さらに古くは、このあたりには、大日本帝国の陸軍の施設がかなりあった。
「駐屯地」
としても、全国でも有数だったようで、ここで訓練して、戦地に向かう兵隊が多かったという。
そういう意味で、その頃から、このあたりは、賑やかなところではあったという。
もちろん、その時代を知っている人は、もうほとんど残っていない。残っているとしても、当時は幼少で、ほとんど記憶にもないことであろう。しかも、陸軍の施設が乱立しているところだったので、どうしても、空襲は激しかったところである。
「戦後は、油と焦土の臭いしかしないところだった」
という話を、昔の人が言っていたというのを、今の老人が話しているくらいで、その人たちも、すでに戦後生まれ、実体験ではなく、
「話に聴いた」
という程度のことだったのだろう。
それを思うと、このあたりが、
「実は、波乱に満ちた土地だった」
ということを本当に知っている人は、少ないに違いない。
そんなこともあって、高度成長時代のせっかくの特需の時代に、このあたりは、取り残されていた。
一つには、
「無差別爆撃のツケが回ってきた」
と言われるもので、
「このあたりには、不発弾が無数に眠っている」
と言われ続けてきた。
それを一つ一つ、地道に捜査して、撤去するには、さすがにかなりの時間が掛かることは分かっていた。
そのため、地主からの要望はあったが、国の復興が最優先ということで、高度成長時期は、どうしても、他の街の成長が優先され、この街は、
「二の次」
にされてしまった。
自衛隊は、在日米軍の協力で、少しずつは撤去されていったのだが、何分、どこに何が埋まっているのか分からない状況だったので、一気には進められなかった。
しかも、撤去には、そこから半径100メートルくらいの避難が必要で、
「下手をすれば、誘爆の可能性もある」
ということで、撤去にはかなりの神経を使った。
そのため、なかなか作業が進まなかったのも、事実である。
しかし、時代が進んでいくうちに、センサーなどの探知機の性能が格段に上がってくることで、不発弾の撤去がかなり一気にできるようになった。
元々、ゲリラ戦においての、地雷などの検知のためだったが、それが、ここで役立つことになった。
不発弾でも分かるようになると、作業が速やかに、そして、効率的にできるようになる。避難だけはしょうがないことだったが、誘爆の危険性が薄れたことで、避難の範囲も、グッと狭まったのだ。
その影響で、作業も頻繁に行えるようになり、あっという間に、一定区間の撤去が完了した。
このノウハウを生かして、他の地区も、今度は計画的に進めることができてきたので、それに合わせて、インフラも整備されてきた。
そもそも、県庁所在地の隣にあるベッドタウンなのに、住宅街は他のベッドタウンに比べ、極端に少なかったのは、
「不発弾撤去」
という問題があったからだった。
そのため、もう、このあたりには、いまさらマンションを建てたりして住宅街にするよりも、県庁所在地としてのF市は、それなりに、土地代も高く、その分、家賃が高いことから、最初からいくつかの会社は、
「どこか郊外にでも、いいところを探すしかないか?」
ということになった。
物流などが絡む会社であれば、郊外に物流センターを作り、そこに、本社、あるいは、支社機能を移転させるということもできるだろう。
しかし、サービス業で、事務所だけがあるところは、郊外に事務所を構えると、通行の不便さだけで何のメリットもないことになる。それなら、
「とりあえず、このままの方がマシなのか?」
としか考えられなかった。
だが、隣のK市で、やっと爆弾処理が終息してくることで、オフィスビルの建設が続くと、続々と、F市から乱入してくる企業が増えてきた。
最初こそ、
ダイナマイト計画
F県K市では、元来、あまり事件らしい事件は発生していないと言われてきたが、ここ数年の世界的パンデミックや、経済不安などから、空き巣、強盗などの犯罪が増えてきて、治安がかなり悪い街になっていた。
ここは、隣が県庁所在地のF市という大都市近郊ということで、ベッドタウンのように思っている人が多いかも知れないが、中心部は、住宅地というよりも、会社が多く存在している。
雑居ビルのようなところに、小さな事務所が多いことから、小さな会社だったり、中小企業の、営業所的なオフィスというのが、結構あるようだった。
駅前には、さすがに大きなビルも多いので、ワンフロアーブチ抜きの事務所では、50人くらいの従業員を抱える事務所もあった。
それでも、全体的に言えば、一つのオフィスに、10名前後くらいの事務所が多く、小規模事務所ともなると、5人程度のところも少なくはなかった。
駅前を中心に、半径500メートル程度というから、少々の範囲がオフィス街であり、それに伴った食堂街なども充実していて、それなりに、街全体が活性化されていたのである。
それでも、F市ほどの大きさはなく、元々、このあたりの開発は遅れていた。
インフラの問題があったのか、本格的な開発は、20年くらい前からだったのだ。
このあたりは、元々地主と呼ばれる人たちが結構いて、以前は、土地を持っているだけで、金になっていたが、バブルが弾けたことで、土地の値段が一気に下がり、ビルを建てて貸し出すなどしないと、運営が難しくなってきたのだった。
当時は、企業の方も、それまでの、
「事業拡大政策」
から一転して、縮小傾向にあった。
そのことから、事務所も
「小さくコンパクトなオフィス」
というのが主流になってきて、そのせいで、細かい事務所がたくさんできてきた。
そういう意味で、ビルも、
「縦長」
という形が多くなってきた。
その方が、土地を有効活用でき、その隣に、立体駐車場を設けることで、社用車だけではなく、一般の人の車も駐車できるようにすると、休日などでも、満になるほどの盛況な状況になるのであった。
そんなK市も、もっと古い時代というと、ちょうど、占領軍の駐屯地があったのだ。
というのも、さらに古くは、このあたりには、大日本帝国の陸軍の施設がかなりあった。
「駐屯地」
としても、全国でも有数だったようで、ここで訓練して、戦地に向かう兵隊が多かったという。
そういう意味で、その頃から、このあたりは、賑やかなところではあったという。
もちろん、その時代を知っている人は、もうほとんど残っていない。残っているとしても、当時は幼少で、ほとんど記憶にもないことであろう。しかも、陸軍の施設が乱立しているところだったので、どうしても、空襲は激しかったところである。
「戦後は、油と焦土の臭いしかしないところだった」
という話を、昔の人が言っていたというのを、今の老人が話しているくらいで、その人たちも、すでに戦後生まれ、実体験ではなく、
「話に聴いた」
という程度のことだったのだろう。
それを思うと、このあたりが、
「実は、波乱に満ちた土地だった」
ということを本当に知っている人は、少ないに違いない。
そんなこともあって、高度成長時代のせっかくの特需の時代に、このあたりは、取り残されていた。
一つには、
「無差別爆撃のツケが回ってきた」
と言われるもので、
「このあたりには、不発弾が無数に眠っている」
と言われ続けてきた。
それを一つ一つ、地道に捜査して、撤去するには、さすがにかなりの時間が掛かることは分かっていた。
そのため、地主からの要望はあったが、国の復興が最優先ということで、高度成長時期は、どうしても、他の街の成長が優先され、この街は、
「二の次」
にされてしまった。
自衛隊は、在日米軍の協力で、少しずつは撤去されていったのだが、何分、どこに何が埋まっているのか分からない状況だったので、一気には進められなかった。
しかも、撤去には、そこから半径100メートルくらいの避難が必要で、
「下手をすれば、誘爆の可能性もある」
ということで、撤去にはかなりの神経を使った。
そのため、なかなか作業が進まなかったのも、事実である。
しかし、時代が進んでいくうちに、センサーなどの探知機の性能が格段に上がってくることで、不発弾の撤去がかなり一気にできるようになった。
元々、ゲリラ戦においての、地雷などの検知のためだったが、それが、ここで役立つことになった。
不発弾でも分かるようになると、作業が速やかに、そして、効率的にできるようになる。避難だけはしょうがないことだったが、誘爆の危険性が薄れたことで、避難の範囲も、グッと狭まったのだ。
その影響で、作業も頻繁に行えるようになり、あっという間に、一定区間の撤去が完了した。
このノウハウを生かして、他の地区も、今度は計画的に進めることができてきたので、それに合わせて、インフラも整備されてきた。
そもそも、県庁所在地の隣にあるベッドタウンなのに、住宅街は他のベッドタウンに比べ、極端に少なかったのは、
「不発弾撤去」
という問題があったからだった。
そのため、もう、このあたりには、いまさらマンションを建てたりして住宅街にするよりも、県庁所在地としてのF市は、それなりに、土地代も高く、その分、家賃が高いことから、最初からいくつかの会社は、
「どこか郊外にでも、いいところを探すしかないか?」
ということになった。
物流などが絡む会社であれば、郊外に物流センターを作り、そこに、本社、あるいは、支社機能を移転させるということもできるだろう。
しかし、サービス業で、事務所だけがあるところは、郊外に事務所を構えると、通行の不便さだけで何のメリットもないことになる。それなら、
「とりあえず、このままの方がマシなのか?」
としか考えられなかった。
だが、隣のK市で、やっと爆弾処理が終息してくることで、オフィスビルの建設が続くと、続々と、F市から乱入してくる企業が増えてきた。
最初こそ、