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悪魔のオフィスビル

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 それぞれに視聴率はよかっただろう。もちろん、どちらの番組も見たという人も多いだろうが、
「時代劇は見るが、現代の話は見ない」
 あるいは、
「現代の話は見るが、時代劇は見ない」
 という人もいたはずだ。
「何があっても、殺すというのは、刺激が強すぎて、暗いだけのイメージが残ってしまう」
 という人もいれば、
「殺さなければ、悪が滅びることはない、徹底的に根絶しないといけないのに、生かしておくというのは、あまりにも甘い」
 という人もいるだろう、
 逆に、
「恨みさえ晴らせば、いいわけで、その恨みの晴らし方が、スッキリしていて、殺さないところが、今の法律に則った中での復讐劇で、これほど、サッパリする話もないだろう」
 という考えの人もいるのだ。
 どちらがいい悪いという問題で考えてしまうと、どちらも平行線を描いてしまうような気がする。
 逆に、二つを通して見ることで、
「悪に対しての、抑止力のようなものに繋がればいい」
 というそれこそ、一縷の望みのような演出なのかも知れない。
 もっとも、テレビ局側は、そもそも、そんな社会正義などはどうでもよく、
「視聴率さえ上がればそれでいいんだ」
 ということを考えているだけなのかも知れない。
 それを思うと、
「勧善懲悪というのは、本当に正義なのだろうか?」
 と考えさせられてしまうのだった。
 そんな勧善懲悪の時代に対するあこがれは、
「今は減ってきているのだろうか?」
 と考えさせられる。
 確かに、今はテレビ番組の編成は昔と比べるとまったく変わってしまった。
 昭和の時代では、ゴールデンというと、野球があり、その裏番組に、時代劇、ドラマ、クイズ番組などというのが主流だった。
 そして、野球が終わった時間からは、二時間サスペンスドラマなどがあった。
 さらには、ゴールデンの前の時間というと、4時くらいから、七時くらいまでは、子供向けのアニメの再放送などが、主流だったではないか。さらに昼間は、奥様向けのワイドショーが多かった。さらには、奥様向けの昼ドラなどである。不倫あり、嫉妬渦巻く昼メロと言われるようなドラマが今では、ほどんどのチャンネルで、報道番組だ。しかも、司会もゲストも、ほぼ芸人。コメンテーターのような先生と呼ばれる人も毎回一緒で、いうことは、まるで壊れた蓄音機のように、同じ言葉を繰り返しているだけだ。
 夕方の番組も、地元の情報番組、地元球団の話題であったり、グルメの店の紹介など、誰が好き好んで見るんだろう?
 とおもうのだ。
 さらに、午後7時からのいわゆるゴールデンの時間は、前は九時をひと段落にして、そこまでとそれ以降で別れていたが、今は、クイズか、バラエティばかりだ。
 売れない芸人や、気色悪い人が出てきて、
「何が楽しいんだ?」
 と思い、これで視聴率が稼げるのか?
 と思うが、実際には、20年くらい前から、有料放送をつないで、自分の本当に見たい番組を見る人が増え、さらに、スマホが普及してからというもの、今度は、
「ユーチューブなどと言われる、配信動画を見るのが趣味」
 という若者が増えてきて、一人暮らしの若者などは、
「家にテレビもない」
 という人が多いことだろう。
 実際に、テレビで面白いと思えるものがないのだから。それくらいなら、
「配信動画を見る」
 ということで、
「テレビなど、必要ない」
 ということになるのだろう。
 ほか弁屋の外人を見ていると、
「勧善懲悪で、誰かに懲らしめてもらいたい」
 という気分になるのだった。
 自分が警察官になったのは、あくまでも、勧善懲悪に対しての思い入れからであり、
「悪を懲らしめ、善を助ける」
 という精神だったはずなのに、実際に中に入ると、そこに蠢いているのは、勧善懲悪とはまったく逆の、理不尽なものだった。
 それは自分の中に、勧善懲悪という意識があるから苦しむことになるのだろうが、次第に自分がその思いに感覚がマヒして、警察というものに慣れていくということが恐ろしいと感じてはいたのだ。
 これも昔のマンガにあったものだが、
「ロボットマンガであったが、不完全に作られたため、人間を助けなければいけないのがロボットの役目のためなのに、悪に操られる形になりかかるのを、最期には何とか耐えて、悪を懲らしめる」
 という、
「一話完結型」
 の話だった。
 だが、最終的には、完全なロボットになるのだが、完全なロボットというのは、感情が欠如してしまっているものだという他のロボットの考え方と違い、このロボットが行き着いた先というのは、
「そもそも、ロボットの悲願は、人間になりたい」
 というものだった。
 人間が、一番完全なものであり、
「ロボットは人間に操られ、利用されるだけの頭脳さえ備わっていればいい」
 という発想だった。
 しかし、その話のロボットは、
「一番完全なものが人間なら、人間を目指せばいい」
 ということで、ロボットの身体を持ったまま、人間の心を持つに至った。
 つまり、
「人間臭いロボット」
 が出来上がったわけだが、そのロボットというのは、
「人間のように、嫉妬深く、人に負けたくないという思いから、相手を押しのけてでも、自分が上にいく。その際に、相手を殺してでも致し方ない」
 という考えだ。
 人間には、理性というものがあり、その徹底には中途半端な善悪の判断から、苦しむこのがあったが、それこそ、不完全な精神を持ったロボットと同じではないか。
 つまり、最期には、
「人間臭さというのは、その理性すらなくした、いわゆる、血も涙もない人間こそが、ロボットの理想とするものだ」
 という結論を導くのだ。
 それが、
「フランケンシュタイン症候群」
 であり、ロボット工学三原則の元になるものだが、その発想が、巡り巡って、この時点に戻ってくるというのは、実に皮肉ではないだろうか?
 しかし、人間の発想というのは、結局、
「一周回って、元のところに戻ってくる」
 というのが、えてして起こっていて、
「人間臭さ」
 というのは、その堂々巡りに結びついてくる。
 あるいは、
「元に戻る」
 という、
 まるで、
「一番、隙のない形というのは何か?」
 と聞かれた時、
「将棋なら、最初に並べた形ではないか」
 ということで、
「元に戻る」
 という発想が、
「結論なのではないだろうか?」
 といえるのではないかとおもうのだった。
 外人すべてが、日本に馴染もうとしないのかと言えば、そんなことはない。結構たくさんの人が馴染もうとしているのだろうが、一部のバカ者どものために、皆、
「マナーの悪い連中だ」
 と思えてくるのだ。
 昔も、いや、最近まで、いや、今でも、
「日本人は、ちょんまげをしていて、刀を差している」
 と思っている人がいたり、
「背が低くて、出っ歯で、カメラをぶら下げていて、いつでもどこでもシャッターを切っている」
 という、まるで戦後の日本を彷彿させる、
「お上りさん」
 を日本人だと思っている人も多いに違いない。
 外人と勧善懲悪を比較するというのは、少し無理があるが、どうしても、
「日本の文化に馴染もうとしない連中ばかり」
 が目立ってしまう。
作品名:悪魔のオフィスビル 作家名:森本晃次