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黒電話の恐怖

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 その場所はプレハブのようなところで、作業員のような人たちが、ヘルメットをかぶった状態で、出たり入ってり、ひっきりなしだった。
 それだけ皆は忙しそうにしていたということである。
 プレハブというのは、小学生の頃にも入った気がした。
 あれは、小学生の時、図書室が、別棟になっていたのだが、二年生くらいまでは、普通にあったのだが、途中から、なくなった。
 その間、プレハブのような、仮の場所を図書館のかわりにしていた。完全に、
「臨時の建物です」
 というのも分かっていて、その時、本当に最初の時、連絡用に、黒電話が置かれていた。
 最初は電話があるなしということまで気にしていたわけではないが、一度、
「ジリリリーン」
 という音が、建物に反響し、想像以上に響いたことで、そこにいた皆が振り返るほどだった。
 そんなことを気にする様子もなく、図書室の管理者が電話に出て、話をしている、その声は建物に反共していて、何を言っているのか、よく分かった。
 だが、内容など他愛もないことで、覚えているわけでもなかったが、あの時の着信音だけが耳に残っているのだった。
 なかなか当時でも見ることが少なくなってきた黒電話、時代としては、携帯電話が普及し始めた頃で、まだ、家に固定電話が多かった時代ではあるが、そのほとんどは、プッシュホン形式の電話に代わっていて、まさか黒電話があるとは思わなかった。
 だが、それも臨時的なものだということであり、実際には、数か月だけの命のようだったが、鳴り響くその音は、耳に残ったのだ。
 図書館は、老朽化による立て直しだということで、一年後には、立派な図書館ができた。本邦初公開となって、利用して見ると、
「あれ?」
 と感じた。
「立派すぎて、どうも自分には似合わない。自分がいる場所ではない」
 という意識を感じると、無性に、プレハブが懐かしかった。
 プレハブの建物だけではなく、黒電話の音も懐かしい。
 プレハブの建物は、黒電話がなくなって、プッシュ回線の電話になってからも、しばらくあり、本当に黒電話はあっという間だったことが、プレハブの最期の頃に黒電話があったのを思い出そうとすると、
「相当前だったな:
 と感じるのだった。
 そのくせ、新しい図書館にいくと、
「プレハブと黒電話の歴史が同じだったかのような錯覚があったのはどういうことだろうか?」
 しかも、新しい図書館に馴染んでいくうちに、
「ついこの間まであったプレハブが、本当は移ってきてから、一か月くらいしか経っていないのに、一年くらい前のような気がする」
 と感じていた。
 一年前というと、プレハブに黒電話が存在していた時期ではなかっただろうか? それを思うと、あながち、
「プレハブと黒電話がほぼ同じ時期に存在していた」
 という感覚は、
「間違いではなかった」
 というのも、ウソではなかったと言えるのではないだろうか?
「どうして、そんな感覚になったのだろうか?」
 ということを考えてみた。
 本郷は、少年時代から、些細なことでも、気になったら、そこで解決しておかないと気が済まないと思っていた。
 それは、彼が神経質だったというわけではなく、単純に、
「忘れっぽいからだ」
 といえるであろう。
 だが、神経質な性格は当たっているようで、まわりからは、少なくとも、
「あいつは、神経質なやつだ」
 と思われている。
 本郷は、
「神経質な性格」
 というのが、嫌いではなかった。
 むしろ、好きな方で、
「神経質なことが、どこまで本人にとって影響があるというのか?」
 と、神経質なくせに、どこかおおざっぱなところがある自分の性格に、疑問を抱きながら、一定のところまで考えると、それ以上は、いくら考えても結論が出ないということだけ理解しているのであった。
 ただ、神経質というのが、どういうことなのか、確かに難しいことではありそうだが、他の人がいうように、
「あまりいい性格ではない」
 とも考えられた。
 ただ、それでも、嫌いではなかったのは、
「勧善懲悪」
 という考えと結びついているという風に考えたからであった。
 勧善懲悪というのは、読んで字のごとく、
「善を勧め、悪を懲らしめる」
 ということである。
 基本的に日本人の中には、善悪の判断もさることながら、善と悪とで、いかに接するかということを明確に考えている人が多いということだろう。
 しかし、世の中、善と悪に分けた場合、
「善がすべて正しく、悪がすべて悪いことだ」
 と、一刀両断に示すことはできないと言えるだろう。
 理不尽なことも多く、それは歴史が証明していて、だからこそ、勧善懲悪のヒーローという形で、時代劇などのドラマができあがるのだろう。
 時代劇だけではなく、日本人の考え方の根底には、
「判官びいき」
 というものがあり、
 いわゆる、
「義経伝説」
 と結びついている。
「戦の天才で、ヒーロー視されている人間が、必ず強く、正義を貫けるわけではない」
 ということを、歴史が証明しているではないか。
 最後には兄に攻められて、自害して果てる。それこそ理不尽だ。
 義経は、兄が挙兵をしたことを知り、源氏再興と、平家打倒だけを夢見て、兄のいる鎌倉に馳せ参じ、そして、見事に平家を打ち破るわけだが、そこで待ち受けていた、権力闘争の、
「道具」
 として使われることになったのだが、いかんせん、戦の天才であっても、政治的なことに関してはまったく疎かった。
 しかも、まわりに従っている連中は、政治に疎い連中ばかりで、鎌倉から一緒に来ている人は、
「それはまずい」
 と言ったかも知れないが、義経は、結果自分の腹心の部下しか信じなかったのだろう。
 そこは兄と同じで、頼朝も、源氏の身内しか、信頼していなかったことは、これも歴史が証明している。
 だから、弟が自分の命令に逆らう形で、朝廷から官位を受けたことが許せなかったに違いない。
 義経の方としても、
「兄のために戦って、その恩賞として、朝廷から位をもらって何が悪い。むしろ、源氏の名誉ではないか?」
 ということを信じて疑わない。
 相手が頼朝でなければ、許されたかも知れない。
 しかし、その感情の裏には、
「坂東武者は、信用できない。やはり信じられるのは、自分の身内だけなのだ」
 というのがあったに違いない。
 そんな頼朝に滅ぼされた義経は、今の時代でも、完全に、
「時代が生んだ、ヒーロー」
 に違いない。
 平家を滅亡させた、神がかり的な強さ、その反面、政治や、権力闘争にはまったく興味がなく、
「平家を滅ぼした後、私はどうやって生きていけばいいのだ?」
 とばかりに、憔悴感が滲めていた義経は、今でいう、
「勧善懲悪」
 の象徴だったと言えるのではないだろうか?
 だからこそ、彼の官位を文字って、
「判官びいき」
 というのだ。
 義経の跡にも、勧善懲悪という意味で出てくる、
「悲劇のヒーロー」
 は結構いる。
 戦国時代の話で、
「戦国シミュレーション小説」
 と呼ばれるものの中には、史実とは異なり、本来であれば、歴史における、
「もしも」
 というのが存在すれば、その仮想の結果からさかのぼって、
作品名:黒電話の恐怖 作家名:森本晃次