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黒電話の恐怖

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 弁論大会に出ようと思ったきっかけは、ある意味物欲だった。
 というのも、弁論大会というのは、高校で年に一回、全校生から出場者を募って、行う大会だったのだが、基本は一人を一クラスから出して、希望者がいれば、その人も出させるということだ。
 だから、希望者が一人でも言えば、わざわざ推薦などで、代表を決めることもない。そういう意味で、出たいという人は喜ばれた。
 実際に、大会の日は、出場者以外は、ただ椅子に座って、演目を聴いているだけで、普通に考えれば、
「何が楽しいというのだ?」
 ということである。
 体育祭にしても、音楽祭にしても、弁論大会にしても、
「出場しなければ、ただ会場にいるだけで、面白くも何ともない」
 といえるだろう。
 しかも、最期に、表彰式があり、優秀者には、表彰されるところを、見せつけられて、嬉しくもないのに、受賞者に拍手をしなければならず、受賞者の喜ぶ顔を、偽物の笑顔で祝福しているかのような顔をしなければいけないのだ。
 こんなことに、本郷は耐えられるものではなかった。
 そんな本郷だったが、
「俺は自分で自信を持てば持つほど、その裏に何があるか分からないと思うようになって、心配になるのだ」
 と感じていた。
 つまり、人から言われる場合は、結構信じるが、自分で自信があると思うことは、ほぼ、怪しいと感じ、あまり自分を信じないようになった。
 本当は自信過剰なくせに、次第に、この思いが心の奥に封印されていって、自信過剰が結果勝つのだが、たまに、弁論大会の時のことが頭をもたげてしまって、自分が何者なのか分からなくなることが多かったりする。
 実際に、教育実習の時は、緊張はあったが、弁論大会の時のことも意識はあったにも関わらず、
「意識があった」
 というだけで、必要以上なことはなかった。
 だから、
「どうしよう」
 という感覚になったわけではなく、
「生徒が聞かなかったとしても、しょせんは、教育実習生のことだからな」
 と、自分が生徒の時、教育実習生など眼中になかったことを思い出していたのだった。
「そうだよな、別に自分たちの成績が、教育実習生の先生ごときで変わるはずもない。俺たちは教育実習生に実習させるための、ただの駒に過ぎないんだ」
 と感じたことを思い出してみると、
「自分が教育実習生になったからといって、高校時代の自分を棚に上げるなどできるはずもない」
 と考えるのだった。
 自分が高校の時は、
「学校よりも、塾」
 だったような気がした。
 いちいち、学校の先生の一挙手一同など見ているわけではない。先生には、
「ちゃんとした内申書さえ書いてもらえれば、それでいいのだ」
 と思っていた。
 本郷は、それから、高校の教師となり、何とか、普通に教えてきた。
 受け持ちの教科は、社会科全般。その中でも自分で専門だと思っていたのは、
「日本史」
 だったのだ。
 今は、社会科も昔と比べてかなり様変わりしていた。そして、歴史に関していえば、今進行形で動いている取り組みとして、
「日本史と世界史を一緒に教える」
 という形の、
「歴史総合」
 という科目を増やし、それを教育指導要綱にしようという目論見である。
 ということは、
「日本史、世界史」
 という学問がなくなってしまうということだ。
 確かに、近世よりこっちは、
「世界史を知らないと、日本の歴史も分からない」
 ということになるのだろうが、日本史の中で、世界の情勢を教えているということで、何が悪いというのだろう?
 あくまでも、発想の違いということである。
 高校では、日本史、世界史と、それぞれ、選択制で教えるものではないのだろうか?
 それを一緒にして、学ぶということは、今でさえ、高校時代に歴史を最後までできるかというとできないことが多い。
 明治から大正で終わってしまったり、下手をすると、まだ鎖国の江戸時代で、卒業ということだってあるだろう。
 そんな状態で、日本史と世界史を合体させてしまったら、下手をすると、卒業までに、
「応仁の乱」
 くらいまでしか進んでいないということになるかも知れない。
 まだまだ、本筋はここからであり、教訓をいっぱい教えることのできる戦国時代にまったく触れないというのは、いかがなものだろう?
 本郷個人の意見としては、
「歴史総合という考え方は、時期尚早ではないだろうか?」
 と思っている。
 もう一つの理由として、
「今は発掘などが進み、今までの定説が狂ってきていて、歴史という学問自体が混沌としているからだ」
 といえるからではないか。
「ただでさえ混乱しているところに、合体させて、ただ混乱を煽るだけではないか? 文部科学省は、何がしたいというのだろう?」
 と考えても無理もないことだった。
 最近の本郷はそんなことを考えるようになった。
 ただ、そんなことを考えるようになったからなのか、それとも、他に何か理由があるのか、最近の睡眠に何か変化が起きてきたような気がした。
 それまで、あまり夢を見たという意識はなかったのに、最近では、
「何か夢を見た気がする」
 とおもうのだ。
 その内容は覚えていない。
「夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れてしまっていくものだ」
 ということは自分でもわかっていて、気がついたら。覚えていないということが結構あった。
 ただ、覚えている夢も結構あるのだが、そんな夢は、怖い夢に限ってのことだった。
「怖い夢ばかりを覚えているのか、それとも、夢は怖い夢しか見ないのか、そのあたりがわからなかった。覚えていない夢は楽しい夢であるか、それとも、やっぱり怖い夢だというのか?」
 ということを考えると、結果、
「覚えている夢が怖い夢でしかないのであれば、夢の見方など、どっちでもいいことではないか?」
 と思えるのだった。
 だが、最近は、それだけではなく、何か気持ちの悪いものがあった。
 最初はそれがどういうことなのか自分でもよく分からなかった。それは、
「覚えていないからだ」
 ということなのだが、本当であれば、そのまま意識することもなく、頭の中から葬り去ってほしかったが、
「頭というのは、そんなに都合よくできているものではない」
 ということらしいのだ。
 最近、
「夢か現実か、よく分からない」
 と思うような出来事があった。
 それを出来事というのは、その時点では、言えなかったが、そのことを他人から指摘されて、やっと、本当のことだと理解した。
 あれは、今から二十日くらい前だっただろうか? 自分の35歳の誕生日が過ぎて、少し気分的に落ち着いた時だった。
 事情があって、学校を移ることになり、新しい学校にもやっと慣れ、生徒の顔もだいぶ覚えられるようになってからのことだった。
 生徒の顔だけではなく、元々人の顔を覚えるのが苦手だった、本郷であるが、特に最近は、生徒の顔が、
「皆同じに見えてしまう」
 という意識が病的なほどだった。
 特に女生徒は、皆同じに見えた。そんなことをいうと、
「逆だろう。女性の方が可憐で、個性を感じるものじゃないのか?」
 と言われたが、かつてのトラウマからか、本郷は、
「女性の顔が普通に見分けられなくなってしまった」
作品名:黒電話の恐怖 作家名:森本晃次