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黒電話の恐怖

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「人間が納得するための言い訳として、まるでダシに使われたのだとすれば、幽霊や妖怪もたまったものではない」
 といってもいいのではないだろうか?
 最近、一人の青年が、そんな、
「怪奇現象」
 に悩まされていた。
 しかも、それが睡眠中の出来事なので、
「夢でも見ていたのではないか?」
 と、人に言ってはいないが、言うと、
「夢でも見ていたんじゃないか?」
 と言われるに違いないだろう。
 そして、本人も、
「ああ、そうだよな。夢だったんだ」
 として、片付けることが一番平和で、
「それができれば、どんなに幸せだと言えるだろう」
 と思っていた。
 しかし、単純に納得することができないのは、
「一度だけということではなく、何度か起こった」
 ということだったからである。
「一度ならずも二度までも」
 ということになると、かなりの信憑性がある。
 一度だったら、信憑性は5%くらいだとすると、二度目では、80%くらいにまで跳ね上がっているだろう。
 だからと言って、三度目で、100%にいくかと言えば、そんなことはない。何度見ても、100%というのはありえないのだ。
 これは、割り算でも同じで、どんなに数字が小さくなろうとも、それは、
「限りなくゼロに近い」
 という数字であり、ゼロになることはありえないのだ。
 ということを示しているのだろう。
 そんなことを考えると、二度見たのであれば、それ以降いくら見ようとも、ほとんど感覚は変わらないといってもいいだろう。
 二度目に感じた時のことが、ある意味、
「すべての感覚だ」
 といえるのではないだろうか?
 彼の名前は、本郷周作という。
 本郷は、35歳になったが、今だ独身で、本人とすれば、
「いまさら、もう結婚したいとは思わないな」
 と感じていた。
 20代に一度結婚を考えた女性がいたが、結婚しようとまでは思わずに、結局、ズルズルとつき合っていただけで、相手から、
「もう煮え切らないあなたとは一緒にいたくない。こっちの感覚がマヒしてきそうだわ」
 と言って、離れていった。
 なんの感覚がマヒしそうなのか、聞きたかったが、どうせ教えてはくれないだろうし、却って、神経を逆撫でするようなことになっても、嫌だったからだ。
「結婚というものは、思い立ったら、一気にやってしまわないと、できなくなる」
 と言われたことがあったが、まさにその通りだ。
 その時は自分の優柔不断さを後悔した。
 結婚を考えているのだから、行動してしまえば、とんとん拍子に結婚にこぎつけたかも知れない。
 しかしそれができないと、次第にどうでもいいように感じられるのは、自分が結婚というものから逃げようとしているのが原因なのかも知れない。
 相手にせかされればせかされるほど、
「何で、結婚なんかしないといけないのか?」
 と感じるのだった。
 結婚というものを、
「人生の墓場だ」
 と言った人がいるが、まさにそうなのかも知れない。
 何と言っても、何も分からないことに対しては慎重になるおは当たり前だが、慎重になりすぎて、タイミングを逸すると、後は惰性になり、女性の強引な押しで結婚してしまうと、
「女房に頭が上がらない」
 ということになる。
 この言葉を日ごろ口にしている人は、優柔不断で決められない時、奥さんの押しで結婚してしまい、後悔している人なのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「人生の墓場が見えてくるような気がする」
 と感じるのだ。
「結婚の裏には、結婚に関わる妖怪のようなものがいて、墓場に引きずりこもうとしているのかも知れない」
 と感じた。
 これは結婚に際してどんな人でも思うことで、円満に結婚した人は、そんなことを考えたということすら、忘れ去ってしまったのではないだろうか。
 だから、覚えていないのであろう。

                 深夜の電話

 本郷は、幽霊や妖怪の類をあまり気にする方ではなかった。高校、大学と、友達と旅行して、
「きもだめし」
 のようなこともやったが、別に怖いとも思わなかった。
 信じる信じないの問題ではなく、
「何が怖いというのか?」
 という方が強かった。
 どちらかというと淡白な性格である本郷は、意外と、友達と話を合わせるのがうまかった。
 といっても、相手の話を信憑性を持って受け入れるわけではなく、ただ、話を合わせるというだけで、合わせるということがうまかったというだけのことだった。
 中学生の頃までは、真逆で、
「あいつは神経質で、急にどうでもいいことに変にこだわってみたりして、きっと、自分の中で、何かを許せないという感覚が強いんだろうな」
 と言われていた。
 しかし、基本は同じだった。
「何か、自分の中で、許せないと思うスイッチがあり、そこを押すと、とたんに神経質で、こだわってしまうところがある、だから許せないと思うのであって、それが大学生になってくると、許せないと思う感覚が少し緩くなってくるのかも知れない」
 と思うようになったのだ。
 だが、大学を卒業すると、急に自分が臆病になってきたのを感じた。
 ひょっとすると、いわゆる、
「五月病」
 というものに罹った後遺症だったかも知れない。
 大学時代に教育実習で、高校で勉強を教えた時は、緊張というのはなかった。
 感覚がマヒしてきて、何も考えられないという思いが強く、教科書を、そのまま読むのでも、緊張からか、完全に固まっていたような気がした。
 教育実習の時は、生徒も素直に聞いてくれた。
 いや、素直に聞いてくれたわけではなく、何も聞いていないのだ。自分が必死にやっているだけで大変だったので、それ以上の問題はなかったが、いざ、自分が教師となって、学校に赴任すると、
「あれ? 教育実習の時と反応は同じなのに、今は、誰も授業を聴いてくれていない気がする。俺はどうかしてしまったのだろうか?」
 と考えた。
 しかし、それは逆で、
「教育実習の時も別に聞いていたわけではなく、聴いているふりをしていたのを、気付かずに、自分でスルーしたことで、聴いてくれていると感じていたsだけなのだ」
 と思った。
 いや、逆に、聴いているふりをされたことを分かっていたのかも知れない。気づいていなかったわけではなく、気付かないふりをして、やり過ごしていたのは、自分の方ではなかったのか。
 それを思うと、
「これが、教育実習と、本当に教師になってからの違いか?」
 というものであった。
 教育実習は、あくまでも、
「予行演習」
 である。
 高校時代に弁論大会に出たことがあったが、あの時もそういえばそうだった。
「自分くらいになると、他の人に負けるはずはない」
 という思いが強く、予行演習の時でも、
「俺が一番だ。この通りに本番もできれば、優勝は俺のものだ」
 と思っていた。
 しかし、実際に大会になると、自分の演題の時、緊張をしたわけでもなかったが、正直、真っ暗な中で、自分だけがライトの当たっているという状態は初めてだったため、前がまったく見えないという状況に戸惑ったのは間違いない。
 だが、
「俺だけではないんだ」
作品名:黒電話の恐怖 作家名:森本晃次