黒電話の恐怖
の方角に当たるというのだ。
つまり、
「邪悪な鬼が出入りする場所として、忌み嫌われてきた」
というのを、鬼門というのだ。
不吉なことが起こる方角ということで、それが、時間の午前二時すぎという、
「草木も眠る」
時間と符合するのだった。
そんな、言い伝えがあることから、幽霊が出る時間を、
「草木も眠る丑三つ時」
と言われるようになったのだ。
しかし、これが、妖怪ではだろう?
妖怪の中には、屋敷にいたりして、夜に出るのもいるかも知れないが、基本的に昼のイメージの方が強い。
日本の妖怪でもそれはいえていて、ただ、妖怪と言われるのは、基本的に、今いる人間以外の動物が、
「変化したものだ」
といえるだろう。
この時、
「へんか」
と読むのではなく、
「へんげ」
と読むのである。
つまり、河童や、天狗などの、森や川にいて、普段は、人間の前に姿を現さない。そして、不思議な力を持っていたり、人間を取って食べるものを妖怪というのだ。
さらに、妖怪というと、動物に比べて、知能が発達しているという発想がある。
特に、人間に捕まらないような用心深さも、まるで人間のようではないか?
妖怪というのは、そうやって考えると、
「動物が変化して、人間になろうとしたが、なれなかったものを、妖怪というのではないだろうか?」
と考えると、昔テレビであった、
「妖怪人間」
などというアニメがあったが、あれも、
「人間になれなかった生物」
という設定だったではないか。
そんな中で、妖怪の出没する時間として考えられているのは、夕方のある時間帯が多かったりする。
特に夕日が沈んでから完全に真っ暗になる時間、風が止まると言われる、
「夕凪」
に近い時間として、ちょうど、まわりが見えにくくなり、今でいう、
「交通事故が多発する時間帯だ」
と言われている。
この時間のことを昔から、
「逢魔が時」
という言葉で言われているようなのだが、その意味としては、
「魔物に出会う時」
という、読んで字のごとしという意味である。
この時間というのは、それまで、太陽の光の恩恵にて、それまで、くっきりと見えていたものが、日の光がなくなったことで、急に見えなくなるということであった、
人間の目が急激な変化についていけないということなのか、意識はしていないが、どうやら、あたりが、モノクロに見えているようである。
だから交通事故が多いといわれていて、昔からこの時間、怪奇現象的なことが多く出た時間帯だったのだろう。
それを、
「魔物の仕業」
ということで、
「逢魔が時」
と呼んで恐れていたのではないだろうか?
そういう意味で、妖怪が出没する時間を、夕方だろうというのは、こういうわけだったのだ。
幽霊が出るのが、
「丑三つ時」
妖怪が出るのが、
「逢魔が時」
だとすれば、他の時間帯には出ないのか?
いやそんなことはないだろう。
特に幽霊など、
「草木も眠る」
と呼ばれる時間帯であれば、企保的に、人間が眠りに就いている時間しか出没しないということになると、怨霊などは、実際に復讐したい相手が寝ていては、恨みを晴らすことはできないだろう。
もちろん、本当に化けて出るということを、実際にするわけではなく、例えば、夢の中に出てきて、そこで、呪うということもできるだろう。
夢の中で呪うことで、余計い恐怖を植え付けるという考えである。
最初は、
「これは夢なんだ」
と思っても、怨霊の力で、その中の一つでも、現実にできたとすれば、呪われる人間は恐怖におののくことだろう。
復讐心をどこまで持っているかであるが、
「呪い殺す」
というところまで考えているのであれば、夢だけでは足りないだろうが、
「自分が成仏できるくらい、相手を苦しめればいい」
というのであれば、夢で相手を呪縛するくらいは、かなりの効果があることだろう。
そのあたりの本心は、本人でなければ分からない。このように勝手な想像をすることも本当にいいのかという思いもあるのだった。
以前から、ホラーなどで、
「人を呪う」
ということは、自分にもその報いがあるという意味で、
「人を呪わば穴二つ」
という言葉がある。
「人を呪うと、自分にも報いがあり、自分も死ななければいけない。呪い殺してしまうと、結局、自分が入る分の墓穴が二ついることになる」
という意味の言葉であった。
ホラー番組で、
「人に殺された人など恨みを持った人間が死の世界に行く前に、自分で選択できるというものがある」
という設定の中で、
「相手を一人だけ、呪い殺すことができるが、呪い殺すと、自分も地獄に堕ちて、生き返ることができないという永遠の苦しみを味わう」
というものがあった。
それでも、復讐し、呪い殺すことを選ぶ人もいる。
それを見て、
「これこそ、知らぬが仏だ」
と思った。
人に殺されて、死の世界に行く途中の人は、自分が死んだことすら受け入れられないというらしい。
そこで、事実を悟らせるわけだが、その事実は、実に恐ろしいものだ。
「誰かを呪い殺して、地獄に行く」
というのが当たり前のことのような発想であれば、いかに事実を知ることが恐ろしいということになるのか、それこそ、
「知らぬが仏」
ということではないだろうか?
それを思うと、
「なるほど、復讐からは復讐しか生まない」
という言葉を聞いたことがあるが、どこから始まったのかということは別にして、復讐というスパイラルから抜けることはできないのだろう。
幽霊は、元々人間だった霊魂である。
本来なら、この世のことを忘れ江、天界に進んで、いわゆる、
「成仏」
するのが、本来の姿なのだろう。
それがうまくいかずに、彷徨うことになれば、それなりに理由があるはずだ。その理由を分かってなのか、分からずなのか。そして分からないのであれば、誰かが教えるという役目を負うだろう。
そういう発想から、前述のホラードラマのような発想が生まれ、別の作者から、似たような話が生まれてくるのも、無理もないことだおる。
盗作ギリギリのものもあるかも知れないが、まったくのマネでなければ、許されるところかも知れない。
何しろ誰も見たことがない死後の世界。発想は、100人いれば、100人とも違っていて当たり前だからである。
そんな幽霊や妖怪、ひっくるめて、
「お化け」
と言われるものは、ある意味、皆、どこかに恨みを抱えているのではないだろうか?
そもそも、この世に生きている人間でさえも、少なからずの恨みを抱えて生きているはずだ。
自分が人を恨んでいるなどと思わないから、
「自分が誰かに恨まれている」
という感覚もない。
ある意味、
「お花畑的発想」
といってもいいだろう。
妖怪や、幽霊に必要な定義として、
「普段は起きないような、怪しげなことが起こる」
というのが、妖怪、幽霊の定義というか、語る前提のようなものではないか?
そういう怖い現象が起こったことで、
「妖怪や幽霊の仕業」
ということで、納得しようと、妖怪、幽霊という発想が生まれたのかも知れない。
そういう意味でいえば、