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黒電話の恐怖

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 それを思い出させてくれたのは。
「一度でも、トラウマが身についた人間には、忘れることのできない感情であり、一生、背負っていくべきものではないか?」
 と感じさせられたのだった。
 自分では、
「あの時の悪夢は、そう簡単には拭い去ることはできないが、自分が悪いことをしたわけではないので、別に後ろめたく思う必要など、さらさらないのだ」
 と思っていた。
 それでも、新しい学校に赴任してくると、なるべくまわりに、
「自分は明るい人間で、左遷されたわけでも、問題があったわけでもないんだ」
 という思いを相手にぶつけるように、なるべく、仲間を作ろうとした。
 しかし、そもそも、そういう性格ではなく、人との付き合いだって、そんなに上手というわけでもない。
 それなのに、無理をすれば、最初からぎこちないというのは分かっているくせに、それでも、強引にしようというのは、
「俺は悪くない」
 という思いを前面に出して、アピールしていかないと、
「自分が本当に左遷された情けない人間だ」
 と、自分で気づかないうちに思い込んでしまっているのではないかと感じるからだった。
 そんな思いを抱いていくということは、それだけ、
「俺自身、トラウマを信じていて、操られないようにしようという意識が強ければ強いほど、トラウマを克服しているつもりで、実は違ったということになり、トラウマに操られているにも関わらず、永遠にトラウマに気づくことなく、トラウマの言いなりになってしまうのではないか?」
 と感じるのだった。
「警察が一度調べたところが、実は一番安全なところだ」
 という考えと同じで、相手も自分をなまじ信じているから、その先を行かれると、後ろばかりを気にして見ているようなプライドの高い人間には、自分の前を進んでいる人の姿が見えないというのと同じことである。
「どれだけ自分を信じることができるだろうか?」
 ということが一番大切なのであった。
 黒電話の音がうるさいと今度は、またさらに遠くの部屋から言い出した。
 その時、
「音がしているのを感じる」
 と言い出したその部屋は空室だったのだ。
 しかも、空室になったのは、ちょうど、音が聞こえると言い出す、実に数日前だった。誰かが悪戯しようにも、その部屋にはカギがかかっている、そんな部屋から音がしてくるはずがないではないか?
 誰もが、
「気持ち悪い」
 と言い出した。
 さすがにこうなると、今まで黙っていた本郷も言わないわけにはいかない。
「実は、私も以前から、黒電話の音に悩まされていたんですよ。でも、最近では、そんな音も聞こえなくなったので、てっきり自分の錯覚ではないかと思っていたので、騒ぎ立てるようなことはしなかったんです」
 というと、他の部屋の人から、
「あなたの部屋で黒電話の音がしているということを、私たちは聞いたことがあったんですけど、あなたが、誰かにいったんじゃないんですか?」
 と言われた。
「いいえ、そんなことはないですよ」
 というと、
「おかしいな」
 とその人はいうのだった。
 その人は同じ階の、端に住む人で、4軒隣の部屋だった。
 そんな話が出た頃だったか、それから二日くらい経ってから、今度は、隣人が、ベランダから落ちるという事故が発生した。
 幸いなことに、大けがをしたわけではなく、かすり傷程度であったが、入院ということになった。
 医者に聴いてみると、
「どうやら、この人は、何かのノイローゼに罹っていて、それで、ベランダから落ちたようなんです」
 ということであった。
「すると、入院というのは、ケガでの入院というよりも、精神的なことでの入院というわけですか?」
 と管理人と警察が聞くと、
「ええ、そうですね」
 と医者は答えた。
 すると、
「この件に関しては、本人がノイローゼになっていたということは、他の人には言わない方がいいかも知れないですね。本人のプライバシーというのもありますからね」
 と言われ、管理人に緘口令が敷かれた。
 しかし、本郷だけは、隣人が、
「黒電話の音に悩まされている」
 ということを知っていたので、
「ベランダから落ちた」
 という話を聞いた時、とっさに、
「ノイローゼが影響しているのではないだろうか?」
 と感じた。
 しかも、
「ケガの様子はたいしたことがない」
 ということは聞いていたのに、入院ということになり、かなりの間、隣室が留守だということになるということを聞くと、何か、気持ち悪いものを感じたのだ。
 そして、その間、たまにであるが、黒電話の音が聞こえることがあった。すでに、感覚がマヒしてしまっていた本郷は、最初の頃のように、
「怖い」
 とも、
「気持ち悪い」
 とも感じないようになっていた。
 それよりも、隣に誰もいないということの方が気持ち悪い気がして、たまに聞こえる壁の向こうの音に、必要以上に敏感になっていた。
「帰ってきたんだろうか?」
 と思ったが、そんな様子もない。
 思わず、隣の呼び鈴を鳴らすがまったく音沙汰がない。入院してから、一週間が経ったが、帰ってきている様子はないのだが、黒電話の音を感じたその時、隣から音が聞こえるのを感じるのだ。
 十日が経って、管理人が、マンションにやってきた。
 ここの管理人は、マンションをいくつも持っているので、定期的に、それぞれのマンションの様子を見に来るようで、ちょうどその時に出くわしたので、隣室の人のことを聞いてみた。すると、
「ああ、あの方は、先日引っ越していかれましたよ」
 というではないか?
「引っ越した? まったくそんな素振りもないし、そもそも、荷物はどうしたんですか?」
 と聞くと、
「元々荷物の少ない人だったので、引っ越しの手間もすぐだったようですよ。あの方は半年もいなかったでしょう? だから、荷造りでほどいていないものも結構あったようなんですよ。だから、荷造りの必要もそんなになかった。だから、引っ越し自体も、1時間もあれば、終わったようでしたよ」
 ということであった。
「じゃあ、跡形もない状態だったわけですね?」
 と聞くと、
「ああ、そういえば、何か、本のようなものが最後に置かれていましたね」
 というではないか。
「どんな本だったんでしょうか?」
 と聞くと、
「私はまったく本を読むことはないんですが、うちの社員の一人がその本のファンだということだったんですが、どうやら、何か、時代小説のようだというんです。内容としては、何か自己犠牲の本だということだったんですが、そもそも自己犠牲というのは、どういうことなんでしょうね?」
 という。
「自己犠牲というと、自分が迷惑を被るようなことがあっても、人のために、尽くしたりという、そういうことなんじゃないでしょうか?」
 というと、
「なるほど、時代劇や時代小説では珍しいですよね? どちらかというと、勧善懲悪の話が、日本人は好きなんだと思っていましたからね。そういう意味では、まったく逆の小説になるんでしょうか?」
 と管理人がいうので。
作品名:黒電話の恐怖 作家名:森本晃次