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黒電話の恐怖

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 夢から覚めるにしたがって、本当に目が覚めるまでの時間、これは、夢を見ている時間よりも、はるかに長いものだと考えると、夢を見るよりも、忘れるという意識の方が、相当な労力を必要としているのではないかと思う。
 そもそも、そんな労力を用いなければならないという
「夢を忘れる」
 という行為は、どういうものなのだろうか?
 と、そんなことを考えてしまう。
 夢を見るというのは、何か、思い出さなければいけないという思いを睡眠中に感じるのだろう。
 ということは、睡眠中というのは、その一つのことだけに、集中することができる。いや、起きている間にできないことを、眠っている間にしようとする、いわゆる、
「人間の本性」
 というか、
「本能的なものとなる」
 といってもいいのではないだろうか?
 夢の世界のことを、最近では、
「まるで、ドッペルゲンガーのようではないか?」
 と考えるようになっていた。
 ドッペルゲンガーというのは、一言でいうと、
「もう一人の自分」
 という概念である。
 これは、自分に似た人という、
「世の中に三人はいる」
 と言われるものではない。
 つまり、自分が感じるというよりも、その主導権は、
「まわりの人にある」
 というものではないだろうか?
 つまり、
「自分に似ているかどうか、判断するのは、自分ではない」
 ということだ。
 それを考えた時。思い出すのが、高校時代の弁論大会だった。
 あの時、悲惨な成績だったことに納得がいかず、放送部の友達に無理を言って、その時の録画を見せてもらったことがあった。
 その時始めて聞いた、
「自分の肉声」
 最初は、
「録音だから、こんな声なのか?」
 と思ったが、友達はハッキリと、
「これがお前の声だよ」
 と言ったではないか。
 その声というのは、自分が想像しているよりも、
「2オクターブくらい高いもの」
 であり、声が透き通るようであればいいのだが、薄っぺらい声質に、ここまでひどいものだとは思わず、正直、ショックを受けたものだった。
 それを感じると、
「普段から、自分の声は、自分の身体を通してしか聞こえない。逆にまわりの人は、空気の振動だけで、こちらの声を聞くことはできない。声質が違っているのは当たり前のことだ」
 といえるだろう。
 だが、
「これが逆であれば、よかったのに」
 と最初は感じた。
 なぜなら、
「人には、いいイメージの声を聞いていてもらいたい」
 とおもうのが普通だと思ったからだ。
 自分だけが感じるのはしょうがないが、まわりの人に、
「か細くて、女のような声だ」
 などと思われるのは嫌だった。
 正直、録画で聞こえてきた自分の声は、自分がもっとも、嫌いな声質であり、本当うに、
「女の腐ったような声だ」
 ということで、
「聴くんじゃなかった」
 と感じるほどの声だった。
 だが、冷静に考えると、普段自分が喋っている、自分の声が好きだった。
「これが俺の声か、なかなかいいじゃないか」
 とずっと思ってきただけに、余計にショックが大きいといってもいいだろう。
 だから、聞こえてきた録画の声は、失望以外の何ものでもなく、だからこそ、自分が弁論大会で、ブービーだったということにも納得がいったのだ。
 最初こそ、
「あんな大会に出なければよかった」
 と思ったが、一度出てしまうと、それからの大会で、他人が、表彰されている姿に、必要以上の嫉妬心を抱くことはなくなった。
 確かに、
「羨ましいな」
 という思いがあるのはしょうがないことだとは思うが、最初の頃ほどのことはない。
 一度出場してしまうと、どういうものなのかがおぼろげに分かり、いくら今回自分が出場していなくても、
「同胞だ」
 という意識が芽生えていたのではないだろうか?
 そう思うことで、一度出場はした。参加したという思いが、何かを納得させたのだろう。それが、声質の違いだったのかも知れない。
「あんな声だったら、そりゃあ、誰だって、成績は下位にするわな」
 という思いである。
 声質もそうだが、いかにも自信がなさそうで、しかも、そのくせ、必死で訴えようとしている姿は、あさましく、滑稽に見えることだろう。
 それを考えると、
「俺が審査員だったら、最低の点をつけるだろうな」
 と考えた。
 もちろん、それだけ、普段の自分の声を知っていて、その反動で、
「この声が、一番嫌いなんだ」
 と感じさせられるということに尽きるのかも知れない。
 と感じたのだった。
「それにしても、成績が悪かったことを、すべて声のせいにはできないのだろうが、手ごろなところで、成績の悪さにされてしまったことで、自分を納得させるためであれば、五感を裏切ってもいいのだという前例を作ってしまったようで、これでいいのだろうか?」
 と思うようになってしまった。
 自分の声を悪者にしてしまったことに、どこか後ろめたさを感じたことが、今回のような夢に対して、違和感を残すことになってしまったのだろう。

                 置かれていた本

 そんな夢を自分がどう感じているか、あるいは、自分に言い聞かせているのかは分からないが、本能で見る夢を、自分の意識や、ましてや、意志というものは、
「いかに夢に対して影響を与えているのだろうか?」
 と感じてしまうのであった。
 特に最近感じる夢というのは、
「何かのスパイラルのようではないか?」
 と思うようになったのだ。
 言い方は変だが、
「夢の中で、別の夢を見ている」
 という感覚になるのだ。
「夢を見ている」
 という思いは、そもそも、前提としてあり、まず考えるのが、
「それが、本当に自分の夢なんだろうか?」
 という感情であった。
 確かに、自分が見ている夢なので、
「自分の夢に違いない」
 といえるのだろうが、
「自分の夢の中では、自分の意識していることしか見ることができない」
 と思えるのだが、実際にはそうではなく、知らないことも夢に見ているように思うのだ。
 その時に意識するのが、
「ドッペルゲンガー」
 というもので。
「ドッペルゲンガーというものには、いくつかのパターンがあると言われていて、そのうちの一つに、自分の行動範囲でしか存在できないということがある」
 というものである。
 それを聞いた時、
「ドッペルゲンガーの正体って、実は夢なんじゃないか?」
 ととっさに思ったが、今から考えても、その発想には一定の納得できる説得力があるように思えてならない。
 それを考えると、
「もう一人の自分を、夢の中で感じるという理屈も、あながちウソや、錯覚ではないのかも知れない」
 と感じるのだった。
「夢を見ている自分と、主人公を演じる自分」
 同じ自分でも、別の自分なのだと思うのだ。
 さらに、
「夢を見ていて、一番怖いと感じる夢は何だ?」
 と聞かれたとして、まず、真っ先に思いつくのは、
「夢の中でもう一人の自分を感じた時」
 と答えるだろう。
 とっさにも答えられるというのは、普段から、夢の中に、もう一人の自分が存在していることを納得しているからではないだろうか?
 つまりは、
作品名:黒電話の恐怖 作家名:森本晃次