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自分の道の葛藤

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 それこそ、時代劇やドラマなどでは、義経というと、わがままで、
「源氏の御曹司」
 という立場が前面に出ているかのようであった。
 そんな九郎義経が、平泉では、味方に裏切られ、自害に追い込まれた。さらに、同行していた静御前を、吉野の山から、京に返すため、つけた従者が、簡単に裏切り、無一文で、静を放り出したというではないか。
 彼に従っている兵であれば、義経に忠誠を誓うのだろうが、一度落ちぶれてしまうと、鎌倉方が怖かったり、それまでの恩を忘れてしまったかのようになったりと、最終的などころで、
「皆、我が身が可愛いんだ」
 ということになるだろう。
 判官びいきというのは、義経の、
「どこか結界のようなものがあり、命を捨ててでも、義経に忠誠を誓う人もいれば、最期は自分が可愛いとして、平気で裏切る人もいる。これは義経に限ったことではあるまいが、彼ほどの波乱万丈な人生において、このような極端な例があるということで、日本人の心を打つ何かがあり、判官びいきと言われているのだろう」
 といえるのではないだろうか?
 だから、決して、判官びいきというのは、
「弱い者に味方をする」
 というだけの単純なものではないのだ。
 そのような感情があるから、時代劇に嵌る人が多いのだろう。
 表にすべて出してはいけない感情を持ち続けていると、時代劇を見ていても、
「そんな単純なものではないのではないか?」
 という考えも出てきて。
「本当に判官びいきと時代劇が単純な結びつきだと思って見てもいいのだろうか?」
 と考えるようになったのだ。
 そういう意味で、頼朝、義経の兄弟の物語も、
「勧善懲悪」
 という問題から見れば、どちらが善で、どちらが悪かということを考えれば、義経が亡んでしまうのは、理不尽でしかない。
 勧善懲悪の観点からいけば、数々の義経伝説が、
「せめて、義経を英雄として語り継ごう」
 という意図が現れている。
 本当の真相はどうだったのかは定かではないが。いろいろな物語に描かれている二人の葛藤としては、
「源平合戦の中、義経は、戦の天才の名をほしいままにするような男で、まずは、都で暴れまわっていると言われている、同じ源氏の義仲軍を、琵琶湖のほとりで滅ぼしておいて、いよいよ平気積塔に乗り出す。平家は自分たちの都である、神戸の福原に陣を敷いていて、前を海、そして、左右の大阪方面からと、明石方面から攻められないように、陣地を設け、後ろは、六甲山の急こう配に守られた、要塞であった。そこを義経は、鹿なら走り下りると言われた鵯越を、馬で降りて見せるという強行軍で、平家を海に追いやった。そして、屋島の合戦を経て、壇ノ浦にて、平家を滅亡させるのだ。その時も、こぎ手を狙うという、当時の戦ではタブーであったことを平気でやってのけるという望郷もあった、つまり、成功したからよかったものの、失敗していれば、勝てば何をやってもいいというやり方に、非難ごうごうだったであろう。それを頼朝は見抜いて、叱責もあったことだろう」
 これが、戦においての九郎義経であった。
 しかし、頼朝を怒らせたのは、
「頼朝の許しを得ず、勝手に朝廷から官位をもらってはいけない」
 という命令があった。
 以前から、坂東武者は、都の官位に憧れていて、もらえるものなら何でもいいという状態だったので、朝廷とは別の坂東の政権をつくろうとした頼朝にとって、朝廷からの勝手な官位の譲渡は、
「鎌倉体制を揺るがしかねない」
 ということで、固く禁じていたのだ。
 それがなければ、義経が官位を貰うのを許したかも知れないが、ただ、本当にそうだろうか?
 自分を差し置いて、法皇に歩み寄った、義経憎しも手伝って、
「勝手に検非違使を受けた九郎を、鎌倉に入れてはならない」
 ということで、腰越から、義経を許さないまま、京に戻らせた、
 それでも、義経が自分にとって代わろうとするのを阻止するため、朝廷から、義経追討の宣旨をもらった。これで義経は朝敵となり、都にいるわけにもいかず、かつての合おだてられた場所である、奥州平泉の、藤原氏を頼っていくのであった。
 しかし、当主が死んだことで、息子たちが後を継いだが、そのうちの一人が頼朝の策に引っかかり、義経を裏切った、そして、義経を滅亡させたが、今度は義経をかくまったということで、鎌倉から攻撃を受け、あっけなく滅びることになった。
「もし、その時、義経が生きていたら、そう簡単に、頼朝軍に滅ぼされることもなかったかも知れない」
 義経、頼朝の兄弟直接対決が見れたかも知れないともいえるだろう。
 これが、義経悲劇の物語であるが、義経と弁慶に関しては、かなりの伝説が二人には残っている。
 まずは、牛若丸時代の、京の五条大橋における、弁慶との初対面で、牛若丸に対して、生涯の主従の契りを結ぶことになる。
 そして、遮那王時代の、義経が天狗に剣術を習うという伝説。そして、戦においての、鵯越、屋島、壇ノ浦と続く、奇襲による連戦連勝の伝説。八艘飛び伝説というのも、壇ノ浦であった。
 さらに、逃亡の際の、安宅関における、歌舞伎で有名な、
「勧進帳を広げて、それを読み上げる弁慶」
 というシーン。
 さらに、いざ死が迫った時の、矢が身体中に刺さっても、ぐらつくことのなかったという、
「弁慶の仁王立ち」
 というシーン。
 とにかく、歌舞伎などで演じられるシーンが、義経、弁慶の間では、目白押しだったのだ。
 そんな伝説が、今から800年前という時代に繰り広げられたのだ。武士の始まりと言われる時代のことである。
 それも、やはり、義経を理不尽さはあっても、
「勧善懲悪」
 として祀り上げたいと考える人が多いということであろう。

                 石ころの意義

 ちあきは、高校生になってできた友達、はるかは、最初こそ、石ころのような存在だったが、彼女もちあきと友達になることで、石ころから少し卒業したようになった。
 といっても、自分から目立つというようなことはしない、あくまでも、
「黒子に徹する」
 という感じであった。
 石ころよりはマシであるが、決して自分から目立つことはしない。いや、できないという立場にいるのが黒子だった。
 それまでは、いつも一人でいて、きっと、自分が何をしたいのか、あるいは、
「何をすればいいのか?」
 ということすら、分かっていなかったのだろう。
 そんなはるかは、そのうちに、
「自分は、誰かに寄生しないと生きてはいけない」
 というように悟ったのかも知れない。
 それが、ちあきと知り合った時だとすれば、皮肉なものだ。
 だが、それは、はるかの運命のようなもので、知り合う相手が誰であっても同じだったのだ。
 つまり、はるかにとって、
「ちあきだったから、知り合えた」
 というわけではないのだろう。
 たまたま、誰かと知り合う時期が、運命として存在していて、その時目の前にいたのが、ちあきだったというだけのことなのかも知れない。
 だから、知り合ってからも、はるかは、そんなに変わることはない。
「まるで石ころのようだ」
 と感じた時、最初は、
「本当にそんな人がいるなんて」
 という、半信半疑なところがあった。
作品名:自分の道の葛藤 作家名:森本晃次