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自分の道の葛藤

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 実際に、アマチュア無線は、明彦が一時期趣味でやっていた。
 明彦は、中学に入って勉強ができるようになると、いろいろなことに興味を示し始め、最初は、
「アマチュア無線の機械が高いから、自分はしないだろう」
 といっていたのだが、どうやら、おじさんという人が元々アマチュア無線をやっていて、今は別のことに趣味を持ってきたことで、機械がいらなくなった。
「明彦君、君が免許を取ったら、これそのままプレゼントするよ」
 ということだったので、明彦は、勉強し、免許を取った。
 それにより、機械を進呈されることとなり、晴れて、
「アマチュア無線を趣味」
 として、できるようになったのだ。
 やり始めると結構楽しいようで、一日数時間でも、机から離れることはないようだ。
 一度、明彦の部屋に行って、隣で見ていたことがあった。
 これが他の人だったら、すぐに飽きるのだろうが、なぜか明彦と一緒にいると、飽きるということはなかった。
 明彦と一緒にいると、飽きがこないというのは、小学生の頃からで、今から思えば、よく明彦の後ろをついていって、明彦がすることを、ただ後ろから見ていたことが多かった。
 実際に明彦は子供の頃は勉強もできず、
「面白くない人間なんだろうな」
 と思っていると、それがなんと、結構一緒にいて楽しいではないか。
 それを覚えているので、
「明彦が何かを始めるというと、それだけで、ワクワクしてくる自分がいる」
 ということを感じていた。
 明彦と自分が中学に入ると、今までの成績の立場が逆転したことで、何かバツの悪いものが、ちあきの方にあり、話しかけることができなくなっていたのだ。
 そんなアマチュア無線や、タクシー無線などを思い出していると、スピーカーからは、
「ガーガー」
 という音が、ザラザラした音に感じさせ、そこに相手の声とともに、高周波の、
「キーン」
 という音が混ざっている。
「まるで、白黒放送のテレビを見ているようだ」
 と感じた。
 これも、昔の映像が好きなおじさんが、有料放送で見ていた映画に、白黒時代の時代劇が出ていた。
 知らなかったことだが、昔の時代劇には、刃と刃が当たった時に聞こえてくる、
「カキーン」
 という音や、人間が斬られる時の、
「ブシュ」
 という音などはまったくない。
 刃が重なった時も、まるで、竹刀同士が当たった時のような、
「カツーン」
 という音が聞こえるくらいで、聴いていると、まったく迫力は感じない。
 人が斬られる時も、まったくの無音で、音がしない中での、
「うわー」
 という、斬られた人が、叫んで、倒れるだけだ。
 効果音がないとここまで大げさに殺陣シーンが見られるとは思ってもみなかった。
 いくら人間が大げさでも、実際に斬られた人が、音もなく倒れていくのは、どう考えても不自然で、迫力に欠けるといってもいいだろう。
「では、実際に、昔の斬り合いのシーンはどうだったのだろう?」
 効果音の通りだとすれば、刀が重なった時に、火花が散ってもいいくらいだが、それがない。白黒映画の時のは、静かすぎるのだが、今の時代劇の今度は大げさすぎる。
「帯に短したすきに長し」
 というのは、まさにこのことだといっておいいだろう。
 人と人が斬り合うというのがどういうことなのか、実際に戦闘シーンを見たことはない。
 時代劇のようあシーンが本当に、江戸時代にあったのかどうかも、怪しい気がする。
 時代劇というと、パターンとして、
「悪代官と、地元の大口商人が結託し、誰か庶民を騙してみたり、あるいは、禁制のモノを密輸しようとしたり、とにかく、いろいろなことをして、私腹を肥やしている」
 というのがパターンであり、そこに、奉行や、将軍が、街に出て、遊び人に化けることで、町内を偵察し、悪を懲らしめるというものだ。
 そもそも、奉行や、将軍が、勝手に城内から出て、庶民の街を出歩くなど、普通ならありえない。
 だいたい、そんなことができるような世の中であれば、それ自体が間違いではないだろうか?
 あくまでも、時代劇という庶民を楽しくするための娯楽としてのフィクションである。
 それを考えると、
「時代小説であったり、時代劇というのは、時代考証であったり、史実に関してはまったく無視してもいい」
 ということになるのだろう。
 将軍様と言えば、今では総理大臣のようなものだ。その人物が、取り巻きや、護衛の人を騙して、ホイホイと、今でいうところの、渋谷や新宿に、アロハシャツを着たチンピラ風に化けて、そこで大暴れして、警察がくると、
「こりゃあ、ヤバい」
 ということで、とんずらするのだ。
 その時に、犯人だけが捕まって、警察の取り調べが行われて、いよいよ起訴され、裁判にかけられると、そこにいきなり、総理大臣が裁判所に現れるわけだ。
 しかも、最高裁判所ではなく、一審なので、地方裁判所となるのではないか?
 そんなところに、別に傍聴人も関係者くらいという、ニュースにもならない裁判で、そもそも裁判沙汰になるはずのないことを裁判にして、そこに、総理大臣が現れ、
「俺も顔を見忘れたか?」
 といって、被告人たちが、
「はっ」
 といって思い出し、別に審議も行うことなく、総理大臣の顔だけで、被告は有罪となるのだ。
 下手をすれば、検察官の求刑よりも重たい刑になることだろう。それが、
「時代劇」
 というフィクションなのだ。
 まあ、時代劇というのは、あまりにも大げさなもので、誰が最初に映像化したのか、時代が違うというのもあるだろうが、
「ああ、昔はそんな感じだったのか?」
 という思いであったり、
「昔だからこそ、ありえることだ」
 と考えるだろう。
 時代劇のテーマというのは、一貫しての、
「勧善懲悪」
 である、
 日本人というのは、昔から、
「判官びいき」
 などという言葉があるように、
「弱い者の味方」
 という意識が強い。
 ただ、本当の判官びいきというのは、若干意味が違っているのではないだろうか?
 というのは、判官びいきの判官というのは、
「源九郎義経」
 のことであり、決して彼は弱いわけではない。
 しかし、孤立してしまったことで、兄の鎌倉から遠ざけられ、多勢で向かってくる敵に対して、どうすることもできなくなった。
 彼は戦の天才と言われているが、あくまでも、
「兵を率いて、戦をさせると、その作戦面が奇抜で、それがことごとく成功した」
 というところで、英雄視されるのだ。
 しかも、集団の中にいれば、いくら一軍の将であっても、組織の中の一人であることには変わりない。しかし、彼は自分の考えを押し通すところがあり、わがままともみられるところがあるが、それでも成功するところに、日本人は共感するのである。
 戦争というのは、兵が多いから勝てるというのではない。兵が多ければ、その統制が難しい。奇抜な作戦で、まわりは困惑した中ででも、きちんとまとめて、勝利に導くのだから、少なくとも、
「統制の取れた軍を動かすことに長けていたのは間違いないだろう」
 ということは、それだけ、まわりから信頼を受けていないとできないことで、わがままでは、統制が取れるわけもない。
作品名:自分の道の葛藤 作家名:森本晃次