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自分の道の葛藤

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 最近では、小説に食指を伸ばしているのを知っている人は、ひょっとすると、ちあきだけなのかも知れない。
 そんな明彦は、自分が小説を書くということを、本当は、ポエムよりも、強く思っていたのかも知れない。
「ポエムはあくまでも、小説を書くための。準備段階だった」
 と思っているに違いない。
 どうしてそこまで思うのかというと、
 中学時代の作文で、明彦は、先生から褒められていた。明彦は小学生の頃から勉強が嫌いで、いつも成績はビリの方。しかし、中学に入ってから、作文を褒められたことで、勉強が好きになったのか、それから成績がウナギ登りでよくなっていった。
 だから、いつのまにか成績も追い越されてしまい、今では自身学校に入学した。
 ちあきの足元にも及ばないと言われるほどの進学校だ。
 中学校に入ると、それまでの成績が急に落ち始め、気が付けば、クラスでもいつも、いわゆる、
「落第点」
 を取っていた。
 夏休みの補習など当たり前で、つき合う人も、同じような底辺の連中ばかりになった。
 とりあえず高校は、何とか、普通の高校に入れたが、成績は相変わらずだった。
 しかし、そうは言っても、まわりは、あまり優秀とは言えない連中の中にあって、さらに劣等生である。
そうなると、成績は最悪であり、勉強など、傍からしたいと思っているわけでもなく、将来についても、まったく見えてこなかった。
 そのくせ、
「作曲をしたい」
 というのだから、他の人から見れば、
「どうせ無理だろう」
 ということになるだろう。
 しかし、実際に作曲を始めると、不思議なことに、成績も上がってきた。ちあき曰く、
「今まで分からなかったものが、分かる気がするんだ。そして、どうしてわからなかったのか? ということが分からなくなるって感じなのよ」
 と自分でも、よく分かっていないという感じだった。
 作曲というように、
「何かを創作しよう」
 という考えは、それまで後ろ向き、
「どうせ私になんか」
 という捻くれた思いを、払拭してくれたのかも知れない。
 それを思うと、今まで思ってきた、
「勉強なんかできない」
 という、
「否定から入る」
 という感覚が、おかしかったということに気づいたのだ。
「そうか、自分は何でも、否定から入るというくせがあったんだ」
 と考えたことで、勉強も作曲もうまくいくようになったのかも知れない。
 つまり、最初からマイナスだったのだ。
 考え方には、加算法と、減算法というものがある。
 加算法は、ゼロに近いものから、どんどん積み重ねていって、次第に、形を作っていくもので、減算法は、テストなどの考え方だといってもいいのだろうが、
「最初に百があって、間違えれば、点数がそこから引かれていく」
 という考えだ。
 これは、元々が百点で設定されているのだから、ゼロから正解を積み重ねていっても、結果は同じである。
 しかし、結果が同じだといってもプロセスが違うのだから、当然違う考え方だといってもいいだろう。
 減算法などは、相手を攻める時などに用いられる考えだ。
 たとえば、
「将棋で、一番隙のない布陣というのは、どういう布陣なのか、分かるかい?」
 と言われ、
「分かりません」
 と答えると、
「最初に並べた布陣なんだよ」
 という答えが返ってくるのだ。
 これはどういうことかというと、最初に並べた布陣が隙がないわけなので、その布陣を動かさないと勝負にならない。攻めるということは、防御をほどいていくわけなので、相手に攻め込まれる前に、いかにこちらが攻め込むか? という勝負である。
 つまり、
「攻撃こそ最大の防御」
 という言葉があるが、逆の真なりで、
「防御あっての攻撃だということは、今の言葉の、一番隙のない布陣が、一番最初に並べた布陣だということが証明しているではないか?」
 それを考えると、
 まずは、防御を完璧にしておいて、そこからいかに攻めるかということが問題になってくる。
 城を攻める時に、攻め手を、
「攻城」
 といい、攻められて、守る方を、
「籠城」
 という。
 籠城というと、まわりを囲まれていることから、補給路はほとんどないといってもいい。それでも、籠城を選ぶというのは、
「攻める方も、かなり難しい」
 ということだ。
 戦国時代などで言われていたこととして、
「攻城戦には、籠城戦の三倍の兵力が必要だ」
 ということであった。
 守る方には地の利もあれば、城の中に。いろいろな罠を仕掛けることもできる。
 攻める方とて、兵力があればいいというものではない。下手に兵が多ければ、狭いところに誘い込まれて身動きが取れず、まわりから、集中砲火を受けて、全滅するということだって普通にある。
 それほど、城の建設には注意が図られていて、
「いかに、敵の攻勢を防ぐか?」
 ということだけを考えて作られている。
 心理的に、敵に対して、錯覚を与えたり、近づいているはずなのに、遠ざかっているかのように見せかけるなどして、先に進めなくするという方法もあったりする。
 特に天守閣などというものは、その心理トリックの罠に使われることも多く、そういうことは、軍師であったり、城の縄張りを築くことが天才的にうまい人がいることから成立しているのだった。
 そんな攻城や、籠城において、一緒にできることは競技や戦争ではできないことで、これはある意味会話とも似ているといえよう。
 よく、
「会話のキャッチボール」
 という言葉を聴くことがある。
 人に話をする時、自分の話をする場合も、相手がちゃんと聞いてくれるかということを意識しておかないと、こっちが考えているほど、相手は聞いてくれていないということになるだろう。
 つまり、相手とのキャッチボールは、
「ひょっとすると、もう一人の自分に話掛けるのと、同じなのかも知れない」
 といえるのではないだろうか?
 それが二重人格の自分なのか、それとも、鬱状態の時の躁状態のように、正反対の性格の自分なのだろうか、ただ、どちらも、普段は表に出てくるものではない。
 自分に話しかける時、相手を、自分だと思って話しかけて、うまくいくだろうか?
 普段から、
「自分に言い聞かせるつもりで」
 とかいう人がいるが、
「本当に、自分に話しかけるなどということはできるのだろうか?」
 ということを考えてしまう。
「自分に話しかけることもできないくせに、人に話しかけることなど、できるのだろうか?」
 と思うと、
「いやいや、できるわけないだろう」
 と、どこかから聞こえてくるのを感じる。
 それこそ、もう一人の自分が、その自分に話しかけることができない自分をあざ笑っているのだ。
 昔の無線機を扱ったことがある人には分かるかも知れない。
 昔はタクシーなどに乗っていると、本部から無線が入ってきたりして、それにマイクで応答していたりした。
 さすがに普段は、そういう光景を見ることはできなくなったが、趣味として、
「アマチュア無線」
 通称、
「ハム」
 というものをやっている人には、馴染みのあることだろう。
 周波数を合わせて、チューニングし、相手と会話ができるところまで持ってくる。
作品名:自分の道の葛藤 作家名:森本晃次