自分の道の葛藤
そういえば、以前、お父さんが好きで、昔の特撮を、有料チャンネルで見ていたのを思い出した。
お父さんが、まだ小学生になった頃だというので、理屈を理解して、見ていたものなのかもわからない。
しかも、
「お父さんが見ていたのは、再放送だったからな」
というが、最近のテレビで、再放送という概念もあまりない。
それこそ、この間の。
「世界的なパンデミック」
によって、番組制作ができなかった時に、苦肉の策で、過去の番組を流していたことくらいしか、ちあきには意識がなかったのだ。
その番組の正義のヒーローというのが、変身するのに、特徴があったという。
「この当時の正義のヒーローってね。変身するのに、特徴があったんだよ。いろいろなポーズがあってね、そのために、敵から変身を邪魔されるのがあったりしてね。この時のヒーローは、鏡がなければ変身できないという設定だったんだよ。まず、鏡の世界に入り込んで、そこから変身して飛び出すというようなね」
というではないか。
「じゃあ、鏡がなかったら変身できないということなのね? それって、相当な制限よね?」
と聞くと、
「そうなんだよ。でも、その代わり、光を発するものなら何でもいいって感じでもあるんだ。車のヘッドライトであったり、水たまりであったり、ガラスの破片などで、変身したものだよ」
という。
「要するに、異次元の世界に入れるのであれば、どこでもいいということなのかしら?」
と、ちあきがいうと、
「ああ、そうだね。異次元の世界が、そのヒーローの本当の世界なのかも知れない。ということは、お父さんは、子供心に、異次元の世界には、ヒーローのような人間よりの優れたヒーローがいっぱいいて、その人たちは、人間よりもたくさんいるだろうってね。特撮ドラマでは、敵のインベーダーも、鏡の世界に入れるようだったけど、基本的に、光に弱いので、少ししか、向こうの世界にいられないということだった。鏡の中の世界って、本当にすごいんだろうね。ひょっとすると、お父さんとソックリな人が、向こうにいるかも知れない」
と父がいうので、
「だから、向こうの世界には、こちらの世界よりもたくさんいるって言ったのね?」
というと、
「ああ、そうだよ。でも、向こうからきたヒーローも実はこちらの世界の誰かかも知れないしね。いろいろと想像させる特撮ドラマだったよ」
というではないか。
ちあきは、その時の父親との会話を思い出していた。
「そうか、二重人格というのは、もう一人の自分が潜んでいるのを、まわりには分かるが自分では分からないような仕掛けになっているんだ。それはまるで、お父さんから聞かされた鏡を使って変身する時のインベーダーのように、変身しないように、邪魔する勢力は、表にではなく、自分の中にあるのかも知れない」
と思うと、さらに、飛躍して、
「ということは、もう一人、変身を邪魔しようとするもう一人が潜んでいるのかも知れない」
と考えた。
「ということは、人間が多重人格だということになれば、自分の中には必ず複数誰かがいるということになるのだろうか?」
とも、考えられるのだった。
「そういえば、自分の中で、何か、自分の考えていることを邪魔しようとしている何かがいるような気がしていて、それを気のせいだというように感じることがあったような気がするんだよな」
と、感覚を覚えたことがあったのを思い出していた。
今まで、
「私は二重人格ではない」
という強い思い込みがあった。そのために、
「じゃあ、この感覚は何なんだろう?」
と思った時、そこにあるのが、
「ちょうど、躁鬱症という感覚だったのだ」
ということである。
躁鬱症と、二重人格であれば、どちらがマシかと言われると、
「躁鬱症だ」
と答えるだろう。
そうやって、躁鬱症であるということに逃げを求めると、そこには、少なくとも自分を納得させる、
「言い訳」
が、必要になってくるのだ。
その言い訳が、今回の鏡だった。
鏡がないので、もう一人の自分を見つけることができない。ただ、それでも、皆は、もう一人自分がいるような話をする。何とか、もう一人の自分を、鏡なしでも、意識できるようにするには、
「鬱状態の自分を知る必要がある」
ということになる。
そんな鬱状態の自分が、ひょっとすると、もう一人の自分の存在を、人から聞かされたことで、気持ちが揺らいでくるというそんな感覚だったのだ。
ただ、油断してしまったのか、これも昔からのくせで、
「一度悪い方に考えると、どんどん抑えが利かなくなってしまい、果てしなく、落ち込んでしまう」
というものだった。
それこそが、鬱状態への入り口ではないか?
そう思うと、以前は、落ち込んだ状態から、立ち直る時は分かる気がしていたのに、急に気持ちが落ち込む時は分からないのに、どうしてなのかと思っていたが、実際には分かっていたのだ。あまりにも、落ち込むスピードが速すぎて、自分の意識が納得しないままに、落ち込みを支えられない精神状態に陥るのだ。
それが、躁状態から鬱状態になる時の感覚で、本当は最初から分かっていたのだ。
「スピードに追い付きさえすれば、自分を納得させることができる」
この思いが、ひいては、
「自分が二重人格ではない」
ということを、自分自身で納得させることができるという、一つの技だった。
自分が二重人格ではないということが、自分にとって、
「本当によかった」
といえるのだろうか?
そんなことを考えていると、まだまだ、他にも、いろいろ考えたことがあったのだが、記憶として残っていないことから、意識に戻すことができず、
「再生不可能」
な状態になっているのではないだろうか?
勧善懲悪
ほとんど、友達のいなかったちあきに、友達ができたのは、高校二年生になってからだった。
その子は、まわりから完全に隔絶していて、まったく目立たない。まわりも意識をまったくしておらず、まるで石ころのような女の子だった。
ちあきは、そんな人間がいるということを意識していた。
「自分のまわりにはいないだろう」
という意識があるから、考えることができたのだ。
つまりは、
「自分が、そんな石ころのような人間になれればいいのに」
という思いがあったからだ。
つまり、石ころというのは、
「すぐ目の前にあっても、誰にも気にされない。あることが、当たり前になってしまうと、下手をすると、そこになければいけないものがなくても、意識しなくなるでしょう? でも、なかなかそこまで気配を消すということは難しい。でも、世の中には、そんな石ころと同じような、誰にも意識されない存在のものが、思ったよりも、多く存在しているんじゃないかな? 俺はね、そんな存在になりたいと時々思うことがあるんだ」
といっていたのは、幼馴染の、杉田明彦だった。
彼は、結構な文学青年で、よくポエムを書いたりして、公募に出したりしていた。
時々入選していたりしたようだが、、入選したことを、明彦はあまりまわりに言わない。
それどころか、ポエムを書いていることすら、ごく一部の人しか知らない。