自分の道の葛藤
という思いを持っている人は多いだろう。
お金をもらって、生業にするわけだから、一番は、
「発注者の要望」
である。
相手の求めているものと違うものを作っても、それはただの駄作でしかなく、自己満足でしかない。
そんなものに、相手が金を出すわけもないし、それを押し通すほどの、昭和時代の、いわゆる、
「匠」
と言われるような、頑固な気質があるわけでもない。
そもそも、今はそんな時代ではないのだ。金を貰う以上、相手の要望に応えるのが、一番の義務である。それができずに、プロを名乗る資格はないというものだろう。
とはいえ、まだまだそんな域に達しているわけでもない。
自分がどの位置にいるのかということすら分からない。
最初なんだから、まだまだだということは分かっている。しかし、これは面白いもので、まだまだだと思っている時期ほど、夢を見て楽しむものだ。
先がまったく見えていないと、
「ひょっとすると、気付かない間に、自分がゴール手前まで来ていて、ゴールのテープを切ると、そこは、満点の極楽が待っているに違いないと思うのだろう」
と感じる、
それが、少し慣れてくると、少しだけは進むだろう、そして、最初は、
「順調に進んでいる」
と思っている間は、精神的にも穏やかなのだが、そのうちに、
「ここまで来たんだから、どれくらい来たんだろう?」
と思って後ろを見ると、
「なんだ、ほとんど来てないじゃないか?」
と思い、失望してしまうかも知れない。
そんな中、もう一度前を向いて歩き出そうとするのだが、今まで前を見て歩いていたはずの、その道が分からなくなるのだ。
これは、何とも感じることのはずなのに、その時々で違っているのだ。
前を見て、
「道がなくなっている」
と感じる時、そして、逆に、道が放射状に、無数に広がっていて、
「自分が進むべき道が分からなくなった」
と感じる時、さまざまだということだ。
つまり、自分の目標というものが、
「見えている時と、見えない時で、その心境の違いも、さまざまだ」
と感じるというものだった。
目標が見えている時でも、
「どこか、急に心配になって、一旦心配になると、それまでとは打って変わって、ロクなことを考えないようになるのが、躁状態から鬱に変わるときだろう」
と考えていた。
躁鬱症の、躁状態から鬱に変わる時というのは、何かきっかけがなければ、気付くことはない。
逆に、鬱状態から躁状態になる時というのは、予感めいたものがあり、何もなくとも分かるというもので、そういう時に限って、何もないというものなのではないだろうか?
そんな躁状態と鬱状態は、別に二重人格というわけではないので、躁状態の時に、鬱状態の意識というのは残っているのだ。もちろん、鬱状態の時も躁状態の時の意識は残っているのだが、それは、
「記憶」
という箱の中にあるものではないようなのだ。
記憶という箱から表に出すことで、出てきた記憶を活性化させ、頭の中で理解できるようにするために、意識として復活させることが、
「思い出す」
ということなのだろう。
基本的に、普通に記憶したものは、記憶の箱から表に出した時、意識が働いて、思い出すことができるというものだ。
それが、躁鬱状態の時には、スムーズに行くのであって、二重人格と思っている人には、その理屈が通用しないから、
「思い出す」
ということができないから、
「もう一つの人格が宿っているのではないか?」
と考えられるのであった。
それを考えると、やはり、
「二重人格と、躁鬱症というのは、そもそも、まったく違っているものであり、そう思うと、二重人格者に躁鬱症が存在したり、躁鬱症だと思っている人が、周りから見て、二重人格だということになるのか?」
と、考えると、ちあきは、
「二重人格と、躁鬱症は、一人の人間に両方存在することはありえない」
と言えるのではないかとおもうのだった。
自分が二重人格であるということが分かったとすると、躁鬱状態に陥った時、どう解釈すればいいというのだろう?
逆に、二重人格は、
「もう一人の自分が表に出ている時は、潜んでいるのだから、躁鬱というものを、考える必要はない」
といえるだろう。
もし自分の中に躁鬱があったとしても、その表裏は、自分ともう一人の自分のそれぞれで受け持っているということとになり、
「どちらが表なんだろう?」
と考えたあとしても、それはナンセンスな発想であり、
「どちらか、表に対して強く思った方が、表ではないか」
といえるだろう
表に出たいと思っている方は、明らかに躁状態の方であり、
「躁状態が、いい状態で、鬱状態は悪い状態だ」
といえるのも、そういうことなのだろう。
躁鬱状態というものを、
「いい悪い」
という判断で区別してしまうのは、危険を伴う。
そう思うと、二重人格と躁鬱症は、
「マイナスにマイナスを掛け合わせて、プラスになる」
という考えを含んでいるのかも知れない。
数学における、二次関数に、
「解が、プラスマイナスの二つがあるように、マイナスにマイナスを掛けてプラスになるという発想は、解というものが、無数存在する数字の世界もあり得るのではないか?」
と考えられるのだった。
そういう意味で、
「いい悪いというのを、プラスマイナスだと考えると、いいことと悪いこと、必ず二つしかないものから、一つを選ぶという発想では、見いだせない結論が待っているということではないだろうか?」
と考えられるのだった。
それは、世の中にあるすべての正対する二つのことに言えることだ。
竹を割ったように、すべてのことがうまくいくのであれば、それに超したことはないが、割った竹からも、何が出てくるのか分からない。もし、それを二次元の発想だとするのであれば、
「発想の三次元」
が、思わぬ形で潜んでいるものなのかも知れない。
ちあきは、さすがに自分のことを、
「二重人格だ」
と思ったことはない。
もし二重人格であるとすれば、自分の知らないところで、自分のもう一つの性格を知っている人がいるということになるからだ。
確かに、まわりから、
「あんた、二重人格なんじゃないの?」
と言われたことはあるが、その内容を聞いてみると、自分に心当たりのあることばかりである。
ということは、
「二重人格などではなく、躁鬱症の方なんだろうな」
と感じるのだ。
二重人格というのは、いわゆる、
「鏡のない世界」
に閉じ込められたような感覚である、
自分というものが、実際にどういう者なのか分からない。そういうことをまわりの人がいうので、自分で自分を確かめたいと思うのに、自分を見るための媒体である、鏡のようなものが存在しないのだ。
「人間というのは、鏡を使わないと自分を見ることができない。それは他の動物にも言えるかとかも知れないが、他の動物は、本能で見ることができるのかも知れない。なぜなら、鏡というものを、自分を見るための道具だという意識を持っていないからに違いない」
ということである。