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自分の道の葛藤

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「受験を犠牲にしてでも青春時代を選んだのであれば、今度は青春時代に対しての責任というものが大きくなるだろう」
 ともいえるのではないだろうか?

                 二重人格と躁鬱症

 ちあきは、高校では、あまり友達を作らなかった。
 同じ部活の人たちは、あくまでも、
「同じ目標を持った、同志」
 であり友達とは違った。
 逆に彼女たちを友達と思うと、今度は、同志ではなくなってしまうような気がして、友達になることを、自分から否定する気分だった。
 それは、他の部員も同じであり、決して自分から友達になろうという人はいなかった。
LINEで繋がってはいたが、それはあくまでも、業務連絡という程度にしか使っておらず、何かの相談などはありえない。
 そもそも、何かを相談したいと思うとすれば、今のところは、
「作曲活動について」
 ということになり、一番相談しにくいのが、彼女たちだといっても、過言ではないだろう。
 ライバルというわけではないが、同じ意味でも、
「好敵手」
 と言った方が、何かしっくりくる気がする。
 好敵手というと、そこには、
「嫉妬ややっかみがないから」
 ということであるが、実際に、自分が強気になっている時は、
「嫉妬ややっかみがあるから、自分も、頑張れるんだ」
 といえるのだった。
 人間は、精神的に、浮き沈みがあり、それが極端だと、躁鬱症になってしまうのだろう。言い方の問題ではあるが、躁鬱症というと、あまりいいイメージがない病気だということになるのだろうが、果たしてそうだろうか?
 いつも、
「可もなく不可もなく」
 という状態で、嫉妬ややっかみもない中で、どこに、自分の探求心や、好奇心を求めればいいというのか、
「嫉妬ややっかみを怖がっていてが、好奇心や探求心を得ることはできないのではないだろうか?」
 と感じるが、果たしてこの考えは間違いなのだろうか?
 ちあきは、中学時代から。自分のことを、
「躁鬱症なんじゃないか?」
 と思っていた。
 それは、急に寂しくなり、その寂しさがあっという間に、
「かなり前から、寂しかったような気がする」
 という錯覚にも似た感覚になっていたからであって、その錯覚が、もっとリアルに感じられるようになったのが、
「嫉妬ややっかみを露骨に感じるようになったのを意識した時と、その嫉妬ややっかみを持つことが本当は、いいことなんだ」
 と感じるようになったのを、交互に感じたからであった。
 同じものでっても、かたや、自分が持っていることに、苛立ちや、焦りのようなものを感じる時、そのくせ、今度は、それらが、自分の中にあることを、まるで、
「必要悪」
 であるかのような、正反対の感覚になることを、最初は、
「私って、どうかしてしまったのかしら?」
 と感じたのだが、それを最初は、
「二重人格ではないか?」
 と思ったのだ。
 二重人格と聞いて最初に思い浮かべるのが、
「ジキルとハイド」
 であった。
 正反対の性格が、薬の影響で、定期的に普段は裏に籠っている悪しき性格が顔を出す。それが二重人格だというものだと思っていたのだ。
 つまり、二重人格というのは、
「必ず、正反対の性格でないといけない」
 と思っていたがそうではないだろう。
 正反対の性格の方が、分かりやすいし、説明もしやすい。そういう、
「本人の都合」
 から来ているものではないだろうか?
 二重人格は、別に正反対の性格である必要などない。ただ、二重人格者のほとんどが、正反対の性格なのかも知れないとも思った。
「ジキルとハイド」
 に関しては、話の内容から、正反対の人格でなければ話をしては繋がらないというものだろう。
 だから、わざと、正反対の性格を出したのだが、これでは、まるで大どんでん返しというものを描いているということになる。
 それ以外の二重人格も当然にあるものであり、ひょっとすると、あまりにも近い性格だから、分かっていても、一つの性格の派生型だと思うことで、一見、二重人格だと思えないと言えるのではないだろうか?
 二重人格というのは、あまりいい表現で使われることはない、それはやはり、
「ジキルとハイド」
 という物語が、二重人格の代表作だということだろう。
 だから、二重人格というと、
「正反対の性格が、一つの身体に宿っているものだ」
 ということの証明なのかも知れない。
 だが、果たしてそうなのだろうか?
 二重人格というものが、表に出る性格だとすると、同じようにまったく正反対の性格を自分の中で籠らせてしまうのが、
「躁鬱症」
 ということになるのだろう。
 そういう意味で、
「躁鬱症と、二重人格というのは、同じような意味ではないか?」
 と考える人もいるかの知れないが、ここでいう、
「表に向けて」
 あるいは、
「内に向けて」
 という意味で、まったく違っているのだ。
 というのも、表に向けてというのは、
「自分を目立たせたいという自分が出ている」
 ということであり、内に向けてというのは、今度は、
「なるべく、人に知られたくない」
 という部分の自分が出てきているのである。
 だから、目立たせたいと思っている自分が表に出ていて、まわりに知らせようとしていることを、裏に隠れている自分は分かっていないだろうし、逆に、今度は、内に向けて考えているなど、目立たせようと思っている人が考えるようなことではないのではないだろうか?
 それを思うと、
「二重人格と、躁鬱症は、同じように解釈されるかも知れないが、そもそも表に出ている時で、違っているのだ」
 と考えられるのであり、これも当たり前のことでいまさらなのだろうが、
「片方が表に出ている時は、片方は絶対に隠れているものである」
 といえるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、世の中というものが、
「いかに勘違いの巣窟であるか?」
 ということである。
 自分のことですら分からないのだ。
「いや、逆にいえば、自分のことだから分からない」
 といえるのではないだろうか?
 それが、躁鬱症の正体であり、二重人格の正体なのだ。
 案外、同じところから派生しているものであり、
「誰もが、躁鬱状態や、二重人格性というものを隠し持っているのではないだろうか?」
 といえるのであろうと思うのだ。
 躁鬱症というのは、一定期間は、表に出ているが、
「自分のことを二重人格ではないか?」
 と考える発想は、突発的なものなのかも知れない。
 そんな中で、ちあきは、作曲サークルで、いくつかの曲を作曲し、作曲コンクールに応募したりした。
 とはいえ、まだ高校生ということもあり、それほど先のことを考えているわけでもない、そこが、控えめに見られる、
「ちあきらしいところだ」
 と言われるゆえんなのだろうが、
「私は別にプロになろうとまでは思っていない」
 と口では言っているが、もちろん、
「あわやくば」
 という気持ちがあるのも、否定できない。
 そんなものは、ちあきに限ったことではなく、
「プロになれるわけはない」
 と思っている人の中には、彼女のように、
「プロになってしまうと、自由に作曲を楽しむことができなくなるだろうな」
作品名:自分の道の葛藤 作家名:森本晃次