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自分の道の葛藤

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 十中八九自分のものだと思ったのに、他の人に切られた。これほど悔しいことはない。
 確かに、まわりを見ずに、自分だけが猪突猛進になるのは、作戦上いかがなものかと思うだろうが、まわりを見ずに自分だけを信じることで、最大の力を発揮する人であれば、これも仕方がない。
 しかし、ゴールの瞬間の悔しさはどうしようもなく、逆にそれだけ必死でやっていたともいえる。
 それなのに、
「二番であっても、タッチの差だったんだから、一位の価値は十分にある」
 と言われても、それは、言い訳にしか聞こえない。
 下手をすれば、欺瞞にしか聞こえないといってもいいだろう。
「何も知らないくせに、何も分からないくせに、勝手なことを言いやがって」
 と心の中では思うだろう。
 冷静になれば、
「ああ、二番でも、よくやった」
 と自分を褒めてやれる時が来るかも知れない。
 しかし、それができるのは、本人である自分しかないのだ。
 だから、グランプリに入った人間が、もし、その後の進路を辞退したとして、まわりからは、
「せっかくグランプリになったのに、辞退なんてもったいない。他に落選した人の気持ちを考えると、そんなことは簡単にできるわけないわよ」
 というに違いない。
 だが、それをいうのは、そのオーディションに関わった、参加者であれば、その資格はあるだろうが、完全な外野からすれば、一種の野次馬でしかないような気がする。
 オーディションに応募した人の中には、冷やかし程度に、
「応募でもしてみるか?」
 と思った人や、
「本当にそれを目的に、幼少の頃から、ずっと頑張ってきた」
 という人もいるだろう。
 それぞれの人の立ち位置によって、見え方は違っているだろう。
 そもそも、グランプリというものを頂きとしてすべての応募者が見ているかどうか、それも怪しいものだ。
 だが、真面目に応募してきている人は、少なくとも、
「誰が選ばれても、恨みっこなし」
 という気持ちで、応募はしてきているはずである。
 だが、実際にグランプリを受章した人が、辞退すれば、次点の人が繰り上がるのかどうかというのも、注目で、
「該当者なし」
 ということもあるだろう。
 そちらの方が、
「諦めがつく」
 と思っている人も多いだろう。
 特に、コンクールなどの場合は、それが多いかも知れない。なぜなら、接待にグランプリを出さなければいけないという状況ではない場合。
 つまりグランプリの受賞が、その目的になっている、オーディションの場合は、次点でも、グランプリに格上げということはあるだろう。
 例えば、何かの番組の主役を決めるオーディションや、アイドルグループで、最初から人数が決まっていて、
「一人が抜けたので、補充メンバーを募集するため」
 などと、ハッキリ分かっている場合は、次点が繰り上げということは、必然なことだろう。
 しかし、これが、コンクールという趣旨の元であれば、
「絶対に、誰かを選ばなければいけない」
 ということでは、決してないのだ。
 実際に選ばれた人は、まずは、有頂天となるだろう。まるで自分が天才にでもなったかのような気分になったり、先生と呼ばれることに素直な喜びを感じたり、それは、その人が実際に、必死になって登ってきた頂きであり、登り切らなければ見ることができない光景を見ていると実感したことが、そのような有頂天にさせるのだ。
 コンクールの場合は、芸術的な賞であったり、出版社などが、その素晴らしい作品を探すというよりも、
「そんな素晴らしい作品を書ける人を発掘し、その人がこれから作る作品で、自分の出版社の本が売れる」
 ということを目指している場合が多いだろう。
 つまりは、作品そのものよりも、作品を製作したその人がほしいということになるのだ。だから、新人賞や文学賞に選ばれて、プロ作家としてデビューをすると、問題は、
「次回作」
 になるのだ。
 最初は、文学賞や新人賞という、
「プロ作家への登竜門に合格する」
 ということに、死力を尽くすことになる。
 いくら、次回作が問題だといっても、大賞が取ればければ、その先がないわけなので、まずは、大賞受賞が第一関門となるのだが、それがとにかく難しい。
 数千の中から、一つを選ぶのだ。下手をすれば、一次審査も通らないということはざらにある。
「一次審査くらい、何度か応募していれば、そのうち通るさ」
 と普通は思う、
 しかし、十回以上応募して、一次審査すら通らないということで、限界を感じ、書くのを辞めるという人も多いだろう。
 中には、
「プロになるのは諦めるが、趣味として、ずっと書き続けていればそれでいい」
 と思う人もいることだろう。
 それはそれで、立派なことだと思う。それがその人のやり方なのだからである。
 それでも、応募は止めないという人もいるだろう。
「自分の実力を測るという意味で、応募し続けるのも、一つのルーティンだ」
 といってもいいだろう。
 応募することで、一次審査を通れば、
「やっとか」
 という感じで、今度は気楽に自分を見ることができる。
 気楽に見ることができるというのは、客観的に見ることができるということで、一定の距離で自分を見ることができるわけで、今まで、主人公として自分を見てきたものを、わき役から主人公を見るような形になることで、今までとは違う見方ができることが、気楽さから、余裕を生むかも知れないのだ。
 だが、気楽になることで、その人本来の埋もれていた実力が開花するかも知れない。一種の、
「覚醒」
 といってもいいだろう。
 そうなると、作品には、まるで命があるかのようになると、審査員も、
「他の作品とは違う」
 と思い、次々に審査をパスしていく。
 そしていよいよ最終審査に持ち込まれるわけだが、基本的には、二次審査を通ったところまでは、
「中間発表」
 として発表されるが、最終選考に残ったかどうかは、最終発表の段階dしか分からないことが多いだろう。
 結果、ひょっとすると、諦めの境地にいた人が、グランプリを取ったとしても、それは無理もないことだ。
 しかし、これは本人には大いに困惑させられるだろう。
 これが、まだ作家を目指している時であれば、有頂天にあるだろうが、
「自分には、作家の道など見えない」
 と思っている人には、
「なんて皮肉なことなんだ」
 と思うだろう。
 そして、新人賞を受賞したとして、プロと呼ばれるようになれば、今度は出版社の見る目が変わってくる。
 これまでは、
「お客さん」
 というような視線だったものが、口では、
「先生」
 といって、敬ってくれるが、立場上は、
「出版社に飼われている、作家のひとりであり、締め切り厳守、守れなければ、契約解除もありえる」
 ということになる。
 専属に近い出版社から契約を解除されると、
「自分はプロなんだから」
 といって、他の出版社が雇ってくれるとは思えない。
「あなたは、あちらで専属でやってたんですよね? それを契約解除ということは、タブーを犯したということですよね? うちでそんなことをされると困るんですよ。プロならプロらしき、しっかりやってもらわないと困ります」
作品名:自分の道の葛藤 作家名:森本晃次