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自分の道の葛藤

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 本当は、自分からなれていれば、それが一番だったのだが、人の影響であっても、それは、自分の持って生まれた性格が影響しているのであって、
「別に他人がすべての影響であるわけではないんだ」
 と感じるようになったのだ。
 そんな石ころに自分がなってしまったことを後悔したが、その思いは長く続かなかった。
 そもそも、自分が望んだことだと思えば、後悔するというのは、お門違いというもので、石ころのような彼女を、最初は羨ましいと思ったことを忘れていたから、後悔してしまったのだろう。
 石ころというと、実際になってみると、
「これほど、理不尽なこともない」
 と感じることであった。
 というのも、
「まわりから見られると羨ましいと思われるくせに、自分がなった時に感じるのは、どうして、まわりが自分を見ようとしないのか?」
 という本来なら、逆の感覚がいいはずなのに、これでは、どちらをとっても、いいことなどない。
 つまりは、
「自分が見ていたのはまわりからであり、実際になったわけではないので、なった時も同じだと考えるのは、しょうがないことなのだろうか?」
 という思いが働くということであった。
 まわりが見て、
「羨ましい」
 と思うことすべてが、本人にとっても、羨ましがられる存在を嬉しいと感じるわけもない。
 だとすれば、自分が目指すものは、まわりの人が羨ましいと思うことだけやっていればいいと思うのだろうが、それをしないというのは、
「その感覚こそが、自己満足でしかない」
 と考えるからだ。
 自己満足というのは、普通であれば、あまりいい意味に取られることはない。
「自分だけで満足して、まわりに満足させられないのであれば、意味がない」
 という考えからだろうが、これこそ、
「古臭い考えだ」
 といえるのではないだろうか?
 そもそも、
「まわりのために何かをすることが美徳だ」
 という考えは、日本人だからなのかも知れない。
 昔、何かのテレビのセリフで聞いたのだったが、
「働くという言葉は、傍が楽をするということで、自分以外の誰かが楽をするために、することだ」
 という、
「奉仕の精神」
 から来ているものであった。
 そういえば、昔の商人というのは、奉公という言葉があり、子供の頃から、近くの商店などで、子供たちが共同生活をしながら、働くという、いわゆる。
「丁稚奉公」
 というものがあった。
 その分を、お給金という形でもらうのだが、これは、中世の封建制度から来ている考えなのかも知れない。中世の封建制度というのは、
「君主が、諸侯たちに土地を与えて、その土地の安泰を約束することで、今度は諸侯たちが、君主が戦争などを起こす時、その所有する土地の大きさに応じて、兵を出すという、一種の、
「双方向」
 であり、
「ご恩と奉公」
 という考え方から、導かれたものなのだと言えるのではないだろうか?
 今の時代から見ると、封建制度や、封建的という言葉は古臭いものであったり、風習が今の時代に合っていない。つまりは、許嫁であったり、家督の問題であったり、とにかく、
「自由のない社会」
 というものが、民主主義から見れば、
「遅れている。古臭い」
 と考えられるのではないだろうか?
 だが、古臭いものばかりではなく、民主主義の悪いところを補っているところもあるのだろう。
 ある意味、昔の封建制度という時代には、
「石ころのような存在」
 といえる人たちは、もっとたくさんいたのではないかとおもうのだった。
 だが、実際に今の時代でも、
「見ざる言わざる聞かざる」
 というものが引き継がれているのかも知れない。
 民主主義といっても、貧富の差が激しく、差別が横行しているのだから、それが自由の代償だということであれば、どっちがいいというのか、その時代に住んでいると、分からなくなってしまうのであって、その気持ちが石ころになるという意味では、
「石ころというものが存在していても、見えていないだけなのかも知れない」
 と感じるのだった。

                 アイドルデビュー

 そんな石ころのような存在だったはるかが、ある日、
「嫌がらせ」
 に感じるようなことを、ちあきにしたのだ。
 それは、本人がまったくその気もないのに、あるオーディションに応募したことだった。
「なんで、こんなことをしたの?」
 と聞くと、
「音楽が好きなようだったので、あなたなら、きっとアイドルになれると思って応募したのよ。アイドルって案外、アイドルになるために、お金使って、子供の頃から、養成学校に通っているよりも、こういうオーディションで選ばれる方が、結構確率が高いものなんじゃないかしら? しかも、本当に合格する子って、結構、友達や家族が内緒で応募したとかいう、サプライズ的なものが多いでしょう?」
 というような、話だったのを聞いて、ちあきは開いた口がふさがらなかった。
「まさか、あなたが、こんなにいい加減な発想をするなんて思ってもみなかったわ」
 と言った。さらに、ちあきは続ける。
「そんな、どこから聞いた情報なのか知らないけど、あなたは何がしたいの? 私がアイドルになったら、恩人だとか言って、私からお金をふんだくりたいの? それとも、マネージャー気どりにでもなりたいの?」
 と聞くと、
「そんなことは思っていないわ。私はあなたの思いを代弁したような形をとっているだけなのよ。あなたは、本当にアイドルになりたいと思わないの?」
 というので、
「アイドルなんて考えたことないわよ。作曲はしているけど、それはあくまでも、モノを作るということがしたいだけ。アイドルのように、他の人が作った曲を歌って、まわりからちやほやされるようなのは、私にとって一番嫌いなことなのよ」
 というと、
「だったら、最終的に、シンガーソングライターで売れるようになればいいんじゃない? そのためには、まずアイドルとしてデビューして、アイドル活動を続ける中で、最終的に迎える卒業後に、そっちの道を目指すといえば、それまでに芸能界に顔を売っているわけだから、その道で生きていける可能性は高いんじゃないかしら?」
 というではないか。
 最初は、
「そんな、うまい話があるわけないじゃない」
 と思ったが、話を聞いているうちに、現実を見てみると、
「なるほど、彼女の言い分も一理あるわね」
 と考えた。
 確かに、自分の本当の夢のために、
「アイドルをとりあえずのステップアップのため」
 と考えることのどこが悪いというのだろうか?
 考えてみると、アイドルには賞味期限があり、ある年齢までくると、第二の人生を、いやでも考えなければいけなくなる。その時になって、アイドルとして燃え尽きてしまうと、本当に人生、そこで終わってしまうかも知れない。
 それを思うと、
「第二の人生のために、第一の人生を踏み台にする」
 と考えることのどこが悪いというのか。
 逆に第二の人生が見えていないと、人生がそこで終わってしまうのだ。それを考えると、何が正しいというのか、考え物だということではないだろうか?
作品名:自分の道の葛藤 作家名:森本晃次