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自分の道の葛藤

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 といって、誰にでも声をかけてくるというのは、ハードルが高すぎるであろう。
 ということは、
「自分が、この人なら、自分にとって許容範囲だ」
 という相手を見切ってからでないと、難しいのではないか?
 彼女もそのことは、分かっていたようで、ちあきと仲良くなっても、他の人に話しかけることもなかった。
 むしろ、石ころというものへの制度が上がったかのようで、下手をすれば、まわりから、はるかという女性の存在をさらに分からないようにしているように思えたくらいであった。
 下手をすれば、ちあきと一緒にいる時でも、まわりからは、ちあきしか見えていなかっただろう。もちろん、誰かと一緒にいるのは分かっているが、その人を意識することはない。つまり、
「存在を意識して、忖度するようなことはない」
 というような、不可思議な感覚になっていた。
 はるかは、ちあきと仲良くなっても、他の人を意識することがないように思えた。
「そうか、これが、はるかの、石ころたるゆえんなのかも知れない」
 と感じた。
 ちあきは、あまり友達も作らず、なるべくまわりに関わりにならないようにしていたいと思っていた。
 そういう意味で、石ころのような存在のはるかに対して、最初はあまり、気分がよくなかった。
 それを、
「まわりにここまで気を遣わずにいられるなんて」
 と、どこか、卑怯な感じで見ていたのだが、実際には、そういうことではなく、自分の中にある嫉妬のようなものが湧いてきたからだというのを、はるかと知り合ってから気づいた。
 要するに、自分がやりたいと思ってもなかなかできないことを、彼女が、いとも簡単にやってのけるというのを見たからだった。
「羨ましい」
 と感じたことが、嫉妬に変わり、それが、
「卑怯だ」
 という意識を持ったというのは、自分にとって、都合よく考えてしまったからではないだろうか?
 ちあきは、最初、はるかを避けていたような気がする。しかし、はるかには、
「自分が避けられている」
 という意識がなかったのだ。
 それだけ、
「石ころに徹してきた」
 ということなのかも知れないし、そんなはるかの態度が、見ようによっては、
「天然少女」
 という風に見えて、
「罪のない表情」
 に感じられ、他の人が、はるかに石ころを感じていなかったとすれば、本当に、
「この子って、天然なんじゃないかしら?」
 としか思わないことだろう。
 そういう意味で、彼女が今、友達を作ろうとすると、違和感なく作れるかも知れない。
 なぜなら、彼女の意識の中に、
「友達ってどういうものなのか?」
 ということが分かっていないのではないかと思うのだ。
 しかし、人間は、友達というものを作ろうとする、他の動物が、生きていくために群れを成すのとは違う意味で、人間も、友達を欲するのだ。
 これは、生まれ持っての意識というか、一種の本能なのだろう。遺伝子の中に組み込まれたものであって、人間は物心ついた頃から、友達を作るということを、当たり前のように行うのだ。
 もちろん、親やテレビの影響で、友達を作るということを教えられているのかも知れない。
 そういえば、幼稚園で、
「一年生になったら、友達百人できるかな?」
 という歌を習うではないか。
 その頃には、友達がいて当たり前だと思っている幼児時代。いつの間にか、友達がいたという意識だったのかも知れない。
 初めての友達は意識して覚えているものだが、大人になれば、無数に存在している記憶の中の一つでしかないのだった。
 そんな中で、石ころになってこれまでやってきたはるかは、幼児二大にも友達がいなかったのだろうか?
 そもそも、いつから、石ころのようになったのかというのも、興味深いものだが、
「私にとって石ころというのは、なれればいいというレベルだったのか、それとも、なりたいと思ってきたことなのか、自分でもよく分からない」
 と、はるかを見ていて感じたちあきだった。
 そもそも、どこか寂しがり屋なところがあるちあきとしては、
「友達らしい人が一人もいないとなると、寂しいと思うんだろうな」
 と感じていた。
 その友達らしい人というのが、今までは、幼馴染の明彦だったのだ。
 明彦が別の学校に行ってしまい、自分は取り残された気分であったが、明彦も憧れていたような、
「石ころのような存在の女の子と、まさかこの私が知り合いになるなんて」
 という皮肉な気持ちだった。
 そんなに、
「友達がほしい」
 と望んだわけではないちあきだったが、友達がほしいわけでもなく、ましてや、嫉妬してしまうほど羨ましい性格である女の子と友達という関係になるなんて、思ってもみなかった。
 最初は、
「それを望んだのは、はるかの方だったんだ。はるかが望んだから、知り合うことになって、友達にもなったんだ」
 と思っていたが、どうもそうではないようだ。
 それを感じたのは、
「はるかが、今でも。自分を石ころだとまわりに意識させている」
 ということを感じた時だ。
 友達になった時は、
「これで、彼女も、石ころから卒業できるんだ」
 と思ったのだが、しばらく一緒にいると、まわりの自分を見る目が少しおかしいということに気づいた。
「私のことが見えていないのかしら?」
 と思えてきたのだが、その前は、
「私、まわりからシカトされているのかしら?」
 と感じたのだ。
 無視されるのが、本当は一番嫌なのだが、その時のシカトというのは、もっと辛い気がした。
 無視とシカトは明らかに違うが、その時は、何がどのように違うというのか、よく分からなかった。
 無視されるのも、シカトされるのも、相手の意識によってのことなのだが、今回のシカトは、どうも意識してのシカトではないようなおかしな気がしてきたのだ。
 そして、ふと横にいるのが、はるかだと気づいた時、
「はっ」
 としてしまった。
 そう、
「はるかが、そばにいるから、私はシカトされているのかしら?」
 と感じたのだ。
 はるかに対してのまわりの態度はそれまでとは変わっていない。そして、そんなまわりの目が、今度は、自分に対して、同じような視線であることに気が付いた。そして、それを自分が、
「シカトされている」
 と思ったのだとすると、
「このシカトというのは、今まで自分がはるかのことを石ころだとして感じてきたのと同じ感覚を味合わされているということになる」
 と感じたのだ。
「じゃあ、まわりから、私も石ころのように見えられているということ?」
 と感じると、かつては、あれだけ石ころのような存在を羨ましく思っていたはずなのに、今はそれが嫌で仕方がない。
 この感覚は、どこから来るというのだろうか?
 それを考えた時、
「石ころというのは、他人からもたらされたものではなく、自分の中に備わっている、素質でなければいけないんだ」
 ということだった。
 しかも、それが当たり前のことのように感じられることで、そのことをすぐに感じれなかった自分を悔しく思い、最初は、
「彼女と友達になった自分を、恨んだものだ」
 と感じたほどだった。
 だが、しばらくすると、自分が石ころのようになってしまったことに後悔はなかった。
作品名:自分の道の葛藤 作家名:森本晃次