パンデミックの正体
だから、そんな宮本博士が、
「伝染病研究の研究所を作る」
と言った時、大学も反対することもほとんどなく、しかも、県知事のお墨付きということもあって、研究所ができたのは、結構早かったのだ。
研究所員も続々と集まってくる。
「あの、宮本博士が作った研究所」
ということで、他の大学を辞めてまで、こっちに移ってくるという人もいたくらいだった。
そんな研究員もいたくらいなので、研究員の募集は、それほど苦になることでもなかった。集まってくるのは、
「宮本博士を慕ってやってくる研究員」
ということなので、宮本博士のことを、最初から分かっている人たちばかりなので、すぐに馴染めたことであろう。
研究所は、作り始めてから、2年くらいで、運用できるくらいにまでなった。
一番の難関は、
「最新機械をいかに手に入れるか?」
ということだった。
それには、宮本博士の知識が必要で、そういう意味でいけば、
「どこの業者のどの機械が一番いいか」
ということは、やはり実際に運用する博士が一番よく分かっていることだろう。
宮本博士は、F大学を卒業してから、しばらくは、海外の大学に留学していた。日本に帰ってきてから、F大学の大学院に進み、そこで博士号を取得。そして、そのまま大学で、研究を続けていたのだ。
助教授となってからは、しばらく、研究から離れていた時期があった。海外の大学にいた頃の仲間が、ある薬を開発しようとしていて、その補助に回っていたのだ。
その時、日本と、海外とを忙しく行き来していた。
そのため、入国の際に、伝染病の検査などの面倒さから、
「彼の開発が一段落したら、今度は、伝染病関係の研究をしようか?」
と考えた。
どの伝染病というわけではなく、世界的なパンデミックが起こった時、どのようにすればいいのかということを、考える研究所である。
空港などの検査の手間を、もう少し簡素化できたり、伝染病が新たに生まれた時のノウハウをどうすればいいのかなどということを、研究するグループである。
もちろん、今ある伝染病を一つ一つ片づけていくのも大切なことである。
しかし、そちらは、どの研究員も行っていることではないか。
「伝染病が起こって対処するのも大切だが、未然に防ぐことができれば、すばらしい」
と考えるのは、宮本博士だけではなく、誰でも感じることなのではないだろうか?
そんなことを考えていると、4年前にやっと日本で落ち着けるようになると、宮本博士には、
「教授の椅子」
が待っていた。
甘んじてそれを受け取り、その勢いをかって、
「研究所を作りたいんですが」
ということを学部長に直訴すると、すぐにOKの返事があった。
その時、宮本博士は、
「まさか県知事が、助力してくれた」
とは思っていなかった。
「ああ、あの県知事ね」
と宮本博士は、後から知ると、知っていたのに、初めて聞いたかのような白々しい言い方をした。
宮本博士は、それまでにも、いろいろな人から援助を受けてきた。
さすがに、
「パトロン」
というところまではなかったが、
「宮本博士になら、出資してもいい」
という法人や企業もあるくらいで、やはり、学会でも名前が知れているだけのことはあるというものだ。
特に、F大学では、
「絶対に、宮本博士を手放したくない」
と思っているようで、何しろ、大学院時代にはかなりの研究を、F大学の名前で発表しているのだ。
世間でも、
「F大学助教授、宮本博士」
と言われていたのだ。
それが、40歳になってから、教授に昇進した。
本当は、博士として戻ってきた時に、教授として迎えることもできたのだが、宮本博士自身が、
「助教授の方が研究しやすい」
ということで、敢えて、教授にならなかったのだった。
それでも、研究所の所長ともなると、教授の肩書がいるだろうということで、
「今度は、受け取ってもらうよ」
という学長と学部長の推しで、それならばと、
「分かりました。ちょうどいい機会ですね」
ということで、博士は、教授のポストになったのだった。
そんな彼が、伝染病研究所の所長だった、
最初から、伝染病研究について、方針が固まっていたわけではない、漠然とした考えはあったのだが、
「何をどうしていいのか分からない」
と思っていた。
実際には、
「研究所のようなものを作って、そこで研究する」
というのが、一番いいということなのだろうが、研究所をどのようにするかということは、ずっと研究しかしてこなかった人間には、どうしようもない。
だが、今回は、県知事の力添えもあって、
「君の力にきっとなってくれるさ」
ということで、県の中には、元研究員という人もいて、さらに、その人は、前の研究所発足の際に、所長と一緒になって、いろいろ勉強し、設立に至った経験から、
「君はこれから研究所を作ろうという大学のサポートにも回ってくれるようになってもらえれば、ありがたい」
という県知事の話から、彼は、県で仕事をしながら、裏では、研究所の研究を進めていた。
それは、その研究所が必要な施設かどうか、県で見定めるという役目を持った人であり、これから研究所をつくるというところには、アドバイザーのような形で協力できるという立場の人だった。
そういう意味で、自由に動けるということから、どこの部署にも所属せず、
「県知事預かり」
という形でフリーになっていた。
たまには、知事の秘書のような仕事もしてもらっていて、ある意味。
「便利屋」
という様相を呈していることから、まわりの目は、
「あの人は何をやる人なんだ?」
と怪しがられていたが、それは、好都合なことだったのだ。
研究所の方も、すっかりスタッフが揃ってきた。宮本教授は、所長としての仕事もあるが、研究員としての手腕の方も捨てがたい、
ということで、県から派遣された研究員が、今では、所長の秘書のような仕事をするようになり、事務的なことなどは、すべて、彼に任せていた。
そもそも、県にいる頃も、どちらかというと秘書的な仕事に手腕を発揮することが多く、県から派遣されたところで、秘書的な役割になることも少なくなかったので、こんな形になることは、県の方でも、最初から承知だったようだ。
「却って、この方がいいだろう」
県知事は思っていた。
なぜなら、知事は宮本博士の考え方や、行動パターンをよく分かっていたからだ。
「逆も真なり」
ということで、所長の方も、県知事のことは、よく分かっていた。
「宮本県知事」
と呼ばれた知事は、返事をして、執務室に、来客を招き入れた。
そう、この県の知事と、F大学の宮本博士とは、実の兄弟だったのだった。
研究所の具体化
「なるほど、だから県知事と、研究所との間に、阿吽の呼吸のようなものがあるのだ」
と、思っている人も少なくないだろう。
ただ、研究所はあくまでも、大学の研究所であり、県は、出資することで、バックアップしているだけだということであった。
しかし、
「俺たちが兄弟だということを知っている人は少ないだろうな?」
と話していた。