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パンデミックの正体

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「新幹線をこの街に通す」
 という格好いいことを言って、それを公約にでもしようとしたのだとすれば、すでに、新幹線の開通は決まった後だということであり、実際の県民は騙された結果になったといっても過言ではないだろう。
 さすがに、オリンピックは、この新幹線ほどひどいものではないかも知れない。
 いや、実際には規模からいうと、もっとたくさんの人や、建築事業が絡んでいることから、こちらの方が深刻なのかも知れない。
 どちらにしても、
「甘い言葉には、必ず裏がある」
 ということであろう。
 オリンピックの時もそうだったが、需要と供給というものが経済学にはあり、オリンピック開催前は、
「需要が相当な数あり、人手不足なくらい」
 だったことで、どんどん、公共事業や、ゼネコンなどが、儲かる時代だった。いわゆる、
「オリンピック特需」
 と言われるものだ。
 しかし、これも、当然のことながら、オリンピックが終わるまでのことである。
 オリンピックが終わってしまうと、もう需要の必要はなくなり、オリンピックのために作った競技場や選手村は、その役目を終えると、跡地でしかなくなってしまうのだ。
 もちろん、政府も、その跡地の運営に関しては、いろいろ考えていただろうが、競技場などは、プロのチームに使用してもらい、活性化させたり、いろいろなイベントを催して、集客するなどということである。
 しかし、実際には、それは、完全に、
「取らぬ田向の皮算用」
 であり、オリンピックが終わると、使用していた会場の多くは、廃墟と化す場合も多かった。
 中には、遊園地や公園に改造したり、マンションなどを作ることで、再利用ができたところもあったが、実際に、そこまでうまくいったところはそんなにもないだろう。
 それこそ、新幹線が開通した後、誰も注目しなくなった、在来線の元特急が停車していた街と同じである。
 少々のイベントや何かをしても、そもそも、特急が停まるから賑わっていたのだ。
 温泉にしても、交通の便がいいから、後は、他の観光地と併用するから、来てみようと思うのであって、それがなければ、ただの廃墟とした街でしかないのだ。
 しかも、新幹線の運営を県民に任せるということで、税金を今までに比べて多く取られることになる。
 地元が繁栄するならまだしも、新幹線を作ったということだけで、とばっちりを食らうことになるのだ。
 始発と終着駅の街は賑わうかも知れないが、途中にある、
「ただの停車駅」
 は、ロクなこともないのだ。
 それを思うと、
「新幹線開通にしても、オリンピック招致にしても、勝手に国が体裁だけを考えてやっただけのことで、地元のことは何も考えてはいないのではないか?」
 と言いたくなるのは、当たり前のことであった。
 政府が地元のことを何も考えていないのは分かっていた。しかし、これが、さすがに首都ともなるとそうもいかない。しかも、
「元、オリンピックが行われた土地」
 ということで話題になり、海外にも公表されると、何のためのオリンピックだったのか、分からないというものだ。
 そんなオリンピックというものが、最近になって、
「世界オリンピック委員会の私利私欲のために行われるのだ」
 というウワサが流れた。
 それは、日本で開催されたオリンピックの時、ちょうど、世界的なパンデミックが襲ったことで、最初、本来行われる年から、延期したのだが、その翌年、さらに、パンデミックが猛威を振るい、さらに、ひどい流行となり、しかも、医療がひっ迫し、医療崩壊を起こしている日本で、
「今年は開催」
 などということをほざく連中が増えてきたのだ。
 しかも、その開催理由として、
「パンデミックからの脱却と復興」
 ということであったが、実際には、まさに流行が著しく、バタバタと人が死んでいくのを横目に見ながら、
「オリンピックを開催する」
 といっているのだから、これほどひどいことはない。
 さらに、世論調査を行えば、
「中止、再延期という意見が国民の、七割を超えている」
 という状況で、政府や、開催都市の知事は、開催を強硬するということだったのだ。
 そんな状態で、国民は政府の体制を批判していた。ネットでは政府批判などが横行し、
「そもそも、オリンピックが得になるのか?」
 という、
「そもそも論」
 が出てきた。
 これは、新幹線計画と同じで、国家や自治体が、オリンピックを招致したことで、いかにロクなことにならないかということを、いまさらながらに感じさせるものだった。
 実際には、オリンピックが終わって、一年くらいが過ぎてから、世間がオリンピック自体を忘れかけている時、当事者たちが、その後始末をさせられるという理不尽な状態で、県民も、やっと、その時になって、オリンピックというもののカラクリや、特需だったということに気づくのだ。
 それは、まるで、値上げ前の、
「駆け込み需要」
 に似ている。
 例えばガソリン代が値上げするとなると、その数日前からガソリンスタンドには長蛇の列ができることになる。
「少しでも、安い間に入れておく」
 ということなのだろうが、考え方を変えると、これもバカみたいなことである。
 ガソリン代がリッターで20円上がるとしよう。満タンで40リッターだとすると、その差は、千円にも満たないものではないか? そのために、ガソリンスタンドにわざわざ並んで入れるということは、下手をすれば、1時間待ちということにもなりかねない。
 1時間、千円未満というと、普通の労働の時給よりも安いではないか?
 つまり、1時間を買ったと考えると、その値段では安すぎる。他のことをしていた方が、建設的だし、なによりも、イライラして待たなければいけないストレスを考えると、
「駆け込み需要」
 というものに、何のメリットがあるというのだろう。
 実際に、値が上がってからのガソリンスタンドには、数日は誰も寄り付かない。ほとんどの人が満タンにしているのだから、一日で、満タン分走るのであれば分かるが、そうでもなくて、休みの日にちょっと乗るくらいの人は、かなり経ってからでしか入れにこない。
 つまり、そもそも、使う金がそれほど高額でないのであれば、何も、並んでまで入れる必要があったのかということだ。
 よほど、家計簿もキチンとつけていて、一円でも無駄にしないような神経質な人であれば、それも仕方がないともいえるが、しょせん、
「生活の一部がガソリン代というだけだ」
 と思っている人には、そこまで考えることはない。
 要するに、
「まわりが皆、こぞってガソリンを入れにいくので、自分も同じことをしないと、損をした」
 と思うからではないだろうか?
 それこそ、
「集団意識のなせる業」
 というものである。
 そんな値上げの瞬間が、オリンピック期間だとすれば、
「駆け込み需要」が、「オリンピック特需」
 であり、そのあとに訪れるのが、
「閑古鳥が鳴いていて、誰も見向きもしなくなった競技場や、ガソリンスタンドのようなものだ」
 といえるのではないだろうか?
作品名:パンデミックの正体 作家名:森本晃次