パンデミックの正体
今回はさすがに設立に関して世論も野党も反対はしない。ただし、
「あくまでも、開かれた研究所であることが大前提です」
ということは野党から言われて、
「了解しました」
と口では言っているが、そう簡単に表に出せないものもたくさんあることは分かっていた。
野党も分かっているから、くぎを刺したのだ。
「こんな政府の作る研究所に、何ができるというものか」
という思いと、
「さすがにこの緊急事態、藁をもすがる気持ちで、研究所に賭けるしかないのだろうか?」 という思いの二つがあったが、本音としては、前者なのではないだろうか?
ただ、さすがに野党としても、
「免罪符として使うなんて」
とまでは思っていなかったのだ。
「いくら政府とはいえ、緊急事態のこの期に及んで、免罪符などという、禁じ手を使うわけはない。使ってしまったら最後、国民の支持を得られなくなる」
と野党は思っていたが。その通りになっていた。
本来なら、このような有事になれば、政権の支持率というものは、少々であっても、上がるのが普通なのだが、日本では低下した。
ということは、
「これが平時だったら、もっとひどいことになっているに違いないな」
ということであった。
何が平時で、何が有事なのかというのは、そもそも、日本に
「有事は存在しない」
という概念で、憲法から作られているので、国会は、特別法の制定が急務となり、少なくとも、現行法だけでは、にっちもさっちのいかないというものだろう。
それほど、パンデミックの初期は、真っ暗なトンネルの中で、右往左往していた。本当は動けば動くほど、自分がどこにいるのか分からなくなるので、じっとしているのが当たり前なのだが、政府というのはじっとしていられないものだ。
それだけ有事に慣れていないということなのか、さらには、
「トンネルというものに、出口があるというのは、勝手な思い込みではないだろうか?」
と考えたのだ。
昔の漫才の、
「地下鉄って、どっから入れたんでしょうね?」
というネタを思い出すのだが、そもそも、トンネルという概念が難しい。
当然、どこかから入れることになるのだろうが、そのどこか。つまり、出発点である、入り口を見つけることが困難で、なぜかというと、どうやってトンネルの中に入ったのか、トンネルを意識した時、その当たり前の感情が喪失してしまうのだった。
そんな状態において、トンネルに入っているのだから、出口がどこかにあるという考えは、ある意味無視がいい。
しかし、いずれはトンネルから抜けることになる。
「入った時のように、気が付けば抜けていたということになるのだろうか?」
と感じるのだった。
トンネルと抜けると、すべてがなかったことになるわけではない。少なくとも、パンデミックで死んだ人、さらには、経済封鎖のごとく、緊急事態宣言下で、締め付けられたひとが、耐えられなくなり、自らの命を断った人。
さらには、外国からのワクチン接種の副反応のせいなのか、そのせいで死んでしまった人。いろいろな原因で、命を落とすことになったのだ。
「ワクチン接種が原因で何かあった時は、国が保証します」
などと言って、ワクチン接種率の向上を目指したが、実際には、ワクチン接種から、数日で死亡した人に対して、
「因果関係を調べるから」
ということで、なかなか保証をしなかった。
保障されても、死んだ人が戻ってくるわけではないのだが、それにしても、政府の言い分が何だというのか、これでは、詐欺ではないか。
いくら、接種率を上げるためとはいえ、
「国民一人の命くらいは」
とでも思っているのか、あまりにも理不尽である。
まるで、竹やりだけを持たせて、一人で、敵兵が待つ戦場に放り出されたようなものではないか? それが国民の立場であり、政府が国民をどの程度見下しているかということが分かるというものだ。
だが、ワクチンの効果は確かにあるようだ。なぜか政府は数字だけを示すことしかしないが、その数字だけで充分な効果であった。
その証拠に、専門家も、一時期とはいえ、パンデミックが収まったかに見えた時があったが、その時は、
「明らかに、ワクチン効果の表れです」
といっていた。
もちろん、要員は他にもいっぱいあるのだが、第一に挙げるのが、ワクチン効果ということだった。
その頃は、政府のやり方に専門家も、反発するようになっていた。明らかに、おかしいと思うことであれば、政府に都合の悪いことであっても、黙っておくようなことはしなかった。それは、
「専門家としての意地」
というのもあるだろうが、
「政府はしょせん、口でいうだけで、何もできない」
と、思うからであろう。
昔の大日本帝国のように、
「特高警察」
などの、憲兵がいるわけではない、
あのような、私軍とでもいえるようなものが存在しては。とても、民主国家と言えるものではないからだ。
「何が一体こんな世の中にしてしまったのだろう?」
という愚痴が聞こえてきそうだが、それを考えるのは必要なことではあるが、優先順位としてはかなり低い。
ある程度パンデミックが収まってから、反省会という意味で議題に上がるべきだろう。
しかし、今の政府のことだから、パンデミックが収まれば、
「ああ、よかったよかった」
ということで、すでに、過去のことになりかねない。
だから、
「歴史は繰り返される」
のであって、
「人間というのは、知恵ある悪魔だと言われるのだ」
ということになってしまう。
「神なき知育は知恵ある悪魔を作るものなり」
という言葉を、玉川学園の創始者が残しているが、まさにその通りである。
このパンデミックというものが、
「神なき知育」
によって、育まれ、そして、パンデミックという、
「知恵ある悪魔」
を作り出したのだ。
人によっては、
「伝染病に、知恵なんかあるのか?」
と言いたいのだろうが、伝染病、つまりウイルスにはちゃんとした知恵が存在しているのだ。
ただ、この知恵は、頭で考えるということではなく、人間でいうところの無意識の中で、彼らは、必死で生き残ろうとしているのが、分かるというものだ。
だからこそ、パンデミックは長年に及ぶ。
「第○○波」
と言ったように、第一波で終わるものはまずなく、最低でも第三波、ひどければ、10波を超えることなど普通にあるというものだ。
実際に、マスゴミの方でも、今が何波目になるのかということを把握できずにいたり、それぞれの解釈で違っていたりするから厄介だった。
新聞によって、波の数が違っても、国民も感覚がマヒしてきているので、そんなことはどうでもいいということになっていた。
何よりも、長引けば長引くほど、感覚のマヒは顕著で、患者数が、過去最多となり、さらには、
「世界最多」
などという時期があっても、その前に、一度終息しかかっていたことで、国民の感覚は完全にマヒしてしまっていた。
ニュースでマスゴミが煽っても、誰も、もう何も感じない。いわゆる、
「オオカミ少年状態」
である。