第一印象と二重人格の末路
しかし、晩生と最初から思っている吾郎は、高校一年生くらいまでは、そんな兆候などまったくなく、ただ気になっていたのは、
「クラスの男が、他の学校の女の子を連れているのを見て、初めて、羨ましいと感じた時だった」
つまり、逆にいえば、同じ学校のカップルだったら、それほど羨ましいと思うことはないということで、それだけ、
「同じ学校の女の子にも興味がない。だから、異性に自分が興味はない」
と思ったのだろう。
だが、それは中学までのことで、今度は高校生になると、今までのように義務教育ではなく、
「小学校からの持ち上がり」
ということもなく、試験で合格した、
「頭が同じレベルの生徒の集まり」
なのである、
言い方は露骨だが、正直、それ以上でもそれ以下でもない。そう思って入学してきたが、一年生の一学期で、すでに、ランク分けはされているような感じだった。
吾郎が自分で感じたレベルとしては、
「中の下」
と言ったところだろうか?
なるほど、中学から受験する時、
「まあ、合格ラインの中でも、かなり上のレベルの高校になるね。一種の冒険かな?」
と担任の先生に言われたのを思い出した。
案の定、入学して見れば、何回が授業を受けただけで、大体、クラスのレベルがどれくらいか分かった気がした。
頭のいい連中は、必死にノートを取っていて、自分よりも、成績の悪そうな連中は、半分授業を聞いていないという雰囲気にも見えたのだ。
授業を聞いていない連中に悪びれた感覚はないようで、見ているだけで、
「本当に試験に合格してきた連中なのだろうか?」
と感じるほどだった。
ということは、
「試験にパスせず、入学できなかった人たちもいるわけだ」
と思うと、
「自分を含めて、成績の悪い人間は、せめて、授業についていくくらいの心構えを持たなければいけないのではないか?」
と思うくらいだった。
だが、それを自分だけが思ったところで仕方がない。ただ、
「他人は他人、自分は自分だ」
ということに間違いはないのだ。
いくら自分が、不合格の連中のことを思ったとしても、繰り上がって合格できるわけではない。
「今頃どうしているのか?」
とは思うが、思えば思う程、どうしていいのか分からない自分を顧みることになるだけなので、考えないのが、一番いいのかも知れない。
高校一年生で、大体、自分のレベルが分かってくると、
「落ちこぼれ予備軍くらいになるのかな?」
と思わないでもいられなかった。
本当は、がんばって、大学受験をしたいのも山々で、先生に相談すると、
「そんなに上ばかりを見ているから、きついんだぞ、まずは、自分のレベルを図ってみて、そして、行ける大学をこれから探していけば、そこから先は、合格目指して、勉強すればいいだけだ。お前のように、そうやって相談してくれるとこっちもアドバイスできるんだが、ほとんどは、自分で勝手に限界を決めてしまうので、困るんだよな」
というのだった。
その先生がいたから、ひょっとすると、大学へも入学できたのかも知れない。
そして、自分が、高校時代、異性に興味を持ち始めたのが、ちょうどその頃だった。
その頃は、先生に相談したことで、気分的に楽になった気がした。そういう思いからか、
「思春期というのは、誰か気が楽になれる道を作ってくれる人が現れた時に、感じるものなのだろうな」
と、自分なりに感じたのだった、
そういう気持ちというのは、他の人も感じたのだろうか?
人が、自分の思春期について話をしているのを聞いたこともない。聞く人もいないのか、完全に、
「聞いてはいけない、タブー」
になっているのだろう。
それを思うと、
「考えてみれば、俺も思春期のことを相談した相手もいないし、一人で悶々と考えるのが、関の山だったような気がするな」
と感じた。
ただ、中学時代に、悶々としているのに、誰にも話を聞けず、一人で悩んでいるかのように見えるやつがいたのを覚えている。
まるで、おしっこを我慢しているかのようで、見ていて、こっちまでムズムズしてくるくらいだった。
「そういえば、おしっこって、一度我慢すると、次にトイレに行きたくなる感覚がほとんどないようになるんだよな」
ということを思い出した。
それまで、50分間の学校の授業を、授業開始前にトイレに行っておけば、事なきを得るというのに、一度我慢してしまうと、次は、10分もしないうちに我慢できなくなる。
あまり我慢しすぎて、膀胱炎になってもいけないので、さすがに我慢できないと、先生に、
「すみません、トイレ」
といって、トイレに行く。
まわりは、その様子を見ながら、あまりいい目では見ない、下手をすると、汚いものでも見ているかのように見られるのだった、
その目を今まであまり浴びた記憶がない。
そんな目を見たくないという思いから、そういう目をされそうな時は、完全に避けているのだった。
だから、まわりに対して、気を遣わなければいけない状態になりそうだったら、自分から避けるようにしている。
中学時代などその典型で、人が近くに寄っただけで、反射的に避けているようなところがあった、
「だから余計に、思春期になりにくかったのかも知れないな」
と思う。
そういう環境に自分を置かなかったという証拠だろう。
思春期の幻影
中学時代がまるで、小学生の高学年くらいの感覚だったのかも知れない。
異性の女の子、特にクラスの女の子は、小学生の頃から知っている人がほとんどなので、新鮮さというところはなかった。
ただ、制服に身を包んでいると、小学生の頃には、あまり可愛いと思わなかった子まで、可愛らしく見えるのだった。
それが、却って自分がおかしいのではないかと思わせ、余計に、異性に対して興味がない世界に追い込んだのかも知れない。
中学二年生の頃、何かムラムラした感覚になったことがあった。
小学生の頃から気になっていた女の子が、一人でいたことがあった時だ。
その子は同性からも人気があるので、いつもそばには、友達でいっぱいだった記憶しかなかった。
その子が、ちょうと、友達と待ち合わせをしている時だったのか、それとも、誰かを待っている時だったのか、正直分からなかったが、その様子を見ていて、それまでに感じたことのない、
「胸の痛み」
のようなものがあった。
何やら、ムズムズするというのか、今でいうところの、
「キュンとする」
という感覚だといっていいかも知れない。
もちろん、
「キュンとする」
という言葉、似たような言葉はあったのかも知れないが、ハッキリとした形で、
「流行った」
という感じではない。
それを思うと、
「流行するというのは、言葉だけではなく、その時のシチュエーションが、ある意味時代にマッチしたものなのかも知れない」
と感じるようになった。
「流行というのは、数十年単位で繰り返す」
というが、ある程度、出切ってしまったところで、元のところに戻ってくるのではないかと思うのだった。
作品名:第一印象と二重人格の末路 作家名:森本晃次