第一印象と二重人格の末路
そういう意味で、今流行っているものが、80年代のものが流行っているということであれば、30年以上も前のことだ。ある意味、吾郎が小学生時代の頃に流行っていたものが、今頃また流行るということなのだろう。
「そういえば、昭和の最期の頃に映画化された続編が、最近になってまた映画になるというのが結構あるって聞いたぞ」
という話を聞いた。
「そうそう、主演の人は今では、押しも押されぬ大スターだけど、ちょうど、30年前のその映画の時がデビュー作だったんじゃないかな?」
ということだった。
それは、一つの例でしかないが、そういう話を聞くと、
「ブームって繰り返すんだよな」
と、改めて感じるのだった。
そんなことを考えていると、大人になってから、急に中学時代、高校時代のことを思い出すようになった。
意外と大学の頃のことよりも、高校の時のことを思い出す。それも、異性が気になり始めた時のことをだった。
その時は、異性が気になってはいるくせに、
「これが思春期なんだ」
という感覚はなかった。
それよりも、感じたこととして、
「他の高校の女子の制服ってかわいいな」
と思ったことだった。
「俺って変態なのかな?」
と思ったりもしたが、本当にそうなのだろうか?
見る目のその対象が、女の子ではなく、着ている制服に目が行ったのだ。
それが、
「中学時代まで同じクラスだった女の子に対して興味を示さなかった自分の言い訳として、それを征服のせいにしようという意図でもあったのだろうか?」
と感じた。
ただ、言い訳をしなければ、いけないわけでもなく、ただ、
「中学時代に感じなかったのは、晩生だからだ、という理由で片付けていいものだろうか?」
と思ったからだと自分で感じたからだ。
ついつい言い訳をしてしまいそうになるのは、吾郎の性格的なもので、言い訳をしないと、いつまでも、ねちねちと言われてしまうという思いが強く頭にのこっているからだったのだ。
ただ、一度大学時代の夢を見たことがあった。
その時見た夢というのは、かなりリアルな夢で、まわりの友達は皆大学を卒業していて、社会人になっていた。ただ、自分が本当に卒業できたのかということが、心に引っかかってしまっていたようだった。
自分も間違いなく、卒業して、新しい会社で仕事もしていた。
それなのに、自分だけが、大学の図書館で勉強している姿が夢の中で見られたのだ。
四年生の時、皆単位を取って卒業が決まっているのに、自分だけまだ取り残した単位があり、一人勉強に勤しんでいる時の感覚だった。
その少し前までは、皆と同じように就職活動をしていた。
皆も次第に就職が決まっていって、吾郎も何とか就職先が決まったので、同じように喜んだが、自分だけ、卒業するために、単位を取るということが残っていると思うと、急に寂しくなってくるのだった。
だから、就職活動に邁進している時は、それほど孤独ではなかった。
「俺だけではないんだ。皆一緒なんだ」
と思うからだったが、実際に、就職が決まってくると、
「俺だけ、単位の取得に邁進しないといけないんだ」
と思うと、これほどの寂しさもなかった。
その時の寂しさが、夢の中でカオスとなって襲ってくるのだろう。
自分は頭の中で卒業できているのが分かっているくせに、どうしてまた図書館で勉強しているのか?
夢の中では、
「まだ卒業できていないんだ」
という思いが強く残り、何度も同じ夢を見てしまう。
その夢を見る時の共通性は自分でも分からないが、きっと何か共通性があるに違いないのだ。
それが、その夢を見ている時を現代とした時の現実に関係があるのだろうが、目が覚めるにしたがって、夢の中で何を考えていたのかということを、すっかり忘れ去ってしまっているようだった。
「そもそも、そういうのを夢というのではないだろうか?」
と考える。
「夢というのは、目が覚める寸前の数秒間くらいで見るものだ」
という話を聞いたことがあった。
どんなに長い話でも、数秒に凝縮されるということは、実際に、夢の濃い、薄いという概念がないのかも知れない。
そんな風に考えると、
「夢というのは、次元が違うものだ」
といえるのではないだろうか?
ということを考えていると、
「目が覚めるにしたがって忘れていく」
というのも分かる気がする。
前述の、
「記憶と、意識」
という感覚も、夢と密接に絡んでいると思っていたので、ここで結びついてくることになるのだろう。
夢を見ている時に、卒業できていないという錯覚が、こびりついている。いや、
「卒業したんだ」
という意識の方が強く思っているので、夢の中では、学校の図書室で勉強している自分に違和感がない。
しかも、大学時代の同級生は、皆就職してるので、スーツ姿で自分の前にいても、違和感がない。
この二つの違和感のなさから、自分で導き出した答えは、
「やっぱり、卒業できずに、留年したのだ」
という思いだった。
留年したということを、当たり前と捉え、卒業できたことが、まるで、
「夢だった」
ということを、夢の中で感じるという、不可解な感覚になる。
しかも、卒業できなかった自分がいるくせに、別の時には、会社で仕事をしている自分も出てくる。
それも違和感がない。なぜなら、本当に卒業して、会社で仕事をしているからだ。
だから、仕事内容も、現実にあるわけで、何をしているか分からないわけではない。
しかし、あくまでも夢の中のことなので、どんなに真実だと思うことでも、夢は夢でしかないのだ。
そのくせ、悪いことが重なる感覚になってしまい、一度卒業できなかったという感覚が悪い方に影響するのだった。
「今年こそ、卒業するぞ」
と意気込み、四年生の時のように、就活しなから、授業にも積極的に出ていた。その時のことを思い出せばいいのだが、夢の中では、
「卒業できなかった」
と思っているのだ。
となると、どんなに頑張っても、
「またダメではないか?」
という、負の連鎖が働くのだ。
ちゃんと卒業して、就職もできた。自分でも、
「よくやった」
と想っているのだが、今までに、ここまでの挫折を味わったことはなかった。
確かに高校時代、
「中の下だ」
ということで、ショックを受けた時期があったが、それでも、まだ中の下だった。
大学四年生にもなって単位を残していて、さらに成績は後ろから数えてすぐのところにいるのだから、本当に底辺だった。
それを思い出すと、受験に失敗もしたわけでもないし、一応、成績はあまりよくはなかったが、大学も現役で入学できた。
そもそも入学した高校が進学校で、その中で少し落ちこぼれただけなので、その気で勉強し、高校入試の時のように、志望校の背伸びさえしなければ、何とかなるということを、高校時代に学んだのだった。
だが、大学の卒業の時につまずくとは思わなかった。
作品名:第一印象と二重人格の末路 作家名:森本晃次