第一印象と二重人格の末路
同じ回答をするにも、算数と数学ではやり方が違う。算数では、ある程度自由に考えられたが、数学では、いかに知っている公式の中から答えることができるかというところが試される学問だといってもいいのではないだろうか?
そんな受験勉強がある意味、
「自由競争」
をいずれしていく時のための、プロローグのようなものだったといってもいいかも知れない。
何といっても、
「受験戦争」
などという物騒な言葉を平気で口にするからだ、
本当なら、実際の戦争を知っている人からすれば、
「本当の戦争は、そんなものじゃない」
と言いたいのかも知れない。
何と言っても、受験で失敗しても、殺されることはないからだ。
確かに、まわりのプレッシャーもすごくて、受験に失敗したことで、気が弱い人は、自分で自分を葬ってしまう人も少なからずいただろう。
そういう意味で、受験戦争というのも、社会現象から、社会問題に発展した時期もあっただろうし、今でもそれが解決されず、継続していることなのかも知れないと感じるのだ。
そんな時代であり、世の中では、第一印象というのは、どこか、
「博打」
のようなものに思える人も多いのではないだろうか?
受験勉強のマークシートを、あまり勉強が得意ではない人は、
「一種の博打」
と考え、昔であれば、鉛筆を転がして、出た数字が、選択式の番号だったりする。
それと、第一印象という考えを結びつけるのは、かなりの無理があるのだろうが、自分という人間が、
「第一印象で相手を判断するのが、くせのようになっている」
と思っている人は、結構、無意識に判断するのが、一番いいと考えているのではないかと思えたのだ。
それこそ、鉛筆の出た目というのは、無意識の答えであり、第一印象と、そんなところで結びついてくるとは思ってもいなかったであろう。
吾郎が、
「自分は、第一印象で人を判断する性格だったんだ」
と自覚するようになったのは、大学生になってからだった。
「じゃあ、それまでは、どうだったんだ?」
と言われると、
「そういえば、誰かを好きになったりなんかしたことなかったかも知れないな」
というと、
「いやいや、それは異性に対しての感情だろう? 友達とかでも、受け付けられないやつとかいるだろう? そういう人をどうやって見分けていたんだってことなんだよ」
と友達に言われ、思わず苦笑いをしてしまった吾郎だったが、その時、本当にただの勘違いだったのか、自分でも疑問だった。
確かに、高校生の途中位までは、異性を気にしたことはなかった。だが、一度気にし始めると、気になって仕方が亡くなる。
「何で、俺は高校生の途中位まで、女性を意識しなかったんだろう?」
という思いと、
「他の連中は、皆中学の頃から彼女がいたりしても、俺は別に羨ましいなんって思わなかったのに、今頃になって羨ましいと思うようになったんだ。どうせだったら、このまま羨ましいなんて気持ちにならなければいいのに」
と感じていた。
晩生だったといってしまえばそれまでだったが、一度気にしてしまうと、
「何で、今まで思わなかったんだろう?」
と感じるのだが、中学時代というと、高校生になってから思い出すと、かなり古い頃のことに思えて、
「この前まで、まるで昨日のことのようだって思っていたのが、ウソのようではないか?」
と感じたのだった。
何か新しいことや、それまで感じたことのなかったようなことを思うと、その時のことが時系列的に、
「果たして、感覚が狂っているんじゃないか?」
と思わせるようになる。
前述のように、前は昨日のことに思っていたのに、何かがあると、遠い昔のように感じたり、逆に、昔のことだと思っていたことが、まるで昨日のことだったように感じる時もある。
それぞれの時系列に何か関係があるのかと思ったが、自分ではよく分からない。
「楽しいことと、苦しいことの変化?」
あるいは、
「思春期を挟んで同じことを考えているのに、感覚が違うと思っていることで、過去にさかのぼった時の感覚になるのか?」
という思いであった。
そして、
「第一印象で決めてるんだ」
と気づいたのが、大学に入ってからのことだった。
それは、異性を意識するようになった時期とも違う、気になっている女の子が現れたからというわけでもない。
もちろん、誰かに指摘されたからでもない。
「人に指摘されたからといって意識するような人間ではない」
と実は、ちょうど、
「第一印象で決めている」
ということに気づいたのと同じ頃に、
「いや、そうではないんだ」
と思うようになった。
「俺って意外と、人から指摘されたことを意識してきたんだよな」
と思う。
いや、実際に、
「自分がこんな人間だったんだったっけ?」
と、自分に対して疑心暗鬼になった時期というのが、ちょうど大学二年生になったこの頃だったのだ。
大学生になってから、自分の生活も、性格までもがまったく変わってしまったと思っていた。
高校生の頃までは、まったくの無口で。
「どうせ大学に入っても、自分から人に話しかけたりなんかすることはないんだろうからな」
と考えていたはずだったのだ。
しかし、大学生になって、急に人と話すようになったのも事実で、
「話しかけられたら、こっちも答えないと失礼だよな」
という考えになる。
大学時代において、高校時代までの暗黒の時代、あるいは、
「黒歴史」
といってもいい時期を、消すことはできないので、
「これから歩んでいく歴史の中で、上書きしていくしかない」
と考えるようになった。
大学時代というのは、そういう時代であり、高校までのように、
「大学入学のための三年間」
という後ろ向きの発想があるわけでもない。
中学時代は、高校受験のため、高校時代は大学受験のため、という三年間ずつは、本当にあっという間だった。
ただ、同じあっという間だった中学時代と高校時代という同じ三年間は、
「本当に同じ長さだったのか?」
と言われると、そうでもなかったような気がする。
しかし、
「中学時代が長かったのか?」
と聞かれると頭を傾げ、
「じゃあ、高校時代か?」
と言われると、迷ってしまっているのが、まるわかりの状態になっているのだった。
ただ、高校時代を思い浮かべて、中学時代を顧みると、かなり遠いと思う。しかし、遠いはずの中学時代を今度は思い返そうとすると、まるで昨日のことのように思えてくるから、そのあたりが不思議なのだ。
中学時代を思い浮かべて高校時代をそこから見ようとすると、本来なら、時代をさかのぼるのではなく、逆行しているのだから、感覚がおかしくなっても不思議ではない。
「長いか短いか?」
という発想で考えると、分からないが、時系列が狂っているだけだと思うと、中学時代から高校時代を見ると、すでに中学時代に、自分の高校時代が見えていたようなおかしな感覚になるのだった。
他の人のほとんどは、思春期を迎えるのは、中学時代であろう。それも、一年生から二年生の間、顔にニキビや吹き出物などができていて、同じ男でも、見ていて気持ち悪く感じるほどだった。
作品名:第一印象と二重人格の末路 作家名:森本晃次