第一印象と二重人格の末路
と考えさせるに十分なものであるということを考えさせられるものだった。
吾郎が、
「自分が第一印象で人を判断する人間なんだ」
ということに気づいた最初はいつだったのだろう?
「いつからそんな性格になったのか?」
などということは、そう簡単に分かるものではない。
まずは、自覚した時を自分で理解し、少なくとも最初に感じたのは、自覚するよりも前だったはずなので、そういう、
「段階を追った」
というような考え方にならなければいけないと思うようになっていた。
ただ、人を第一印象で判断するということは、いきなり相手を見切るということでもあり、本当であれば、何度か会って話をしているうちに感じることを一瞬にして判断しようというのだから、本当だったら、絶対に仲良くなれそうだとまわりが思うような人同士であっても、こっちから一方的に、第一印象で、
「無理だ」
と判断すると、それ以上を判断することなどできっこないのだった。
本当は相手は、
「仲良くなりたい」
と思っていたとしても、いきなり、合わないと判断されたなどと思ってもいないだろうから、相手の性格も分かっていないこちら側とすれば、どう対処していいものか分からない。
こっちも意地になって、
「そっちがその気なら、こっちだって」
と思う人も結構いるだろう。
それだけ、第一印象で、
「この人は無理だ」
と思われた人からすれば、失礼でしかないからだ。
「こんな失礼なやつに対して、俺が合わせてやる義理なんてないんだ」
と思う。
男性同士であれば、少しは分かり合えることもあるが、これが異性が相手だったりすると、どうしようもない場合がある。
一度、離れてしまうと、近づくことがないほどに、下手をすれば、一度嫌いになってしまうと、修復は不可能だと考えるのも、異性が相手の方が、かなりいるのではないだろうか?
それは、第一印象に限らずである。第一印象はお互いによかったはずなのに、どんどん距離が出てきた。相手が分からなくなっていき、別れるしかないようになってしまった。
ということも往々にしてあるのだろうが、しかし、逆も考えられる。
「別れることになるのであれば、最初の第一印象から、何らかの違和感はあったはずで、それを曖昧にして付き合ってきたから、修復できないままに別れることになってしまうのだ」
といえるのかも知れない。
要するに第一印象から、違和感があったものだということを気づいているからこそ、違和感を持ったまま、
「どこかおかしい」
と考えながら、無理なものを押し通してきたと言えるのではないだろうか?
世の中には、第一印象を大前提として考える人と、第一印象は、ただのきっかけに過ぎないと考える人の二通りがいるだろう。
そんな二人であってもうまくいくのかどうか、そこは難しいかも知れないが、人には、
「相手に合わせる」
あるいは、
「自己犠牲」
というような考え方を持つことで、何とか、バランスを保とうと考える人が多いことだろう。
比較的日本人にそんな人が多いと感じるのは、
「大日本帝国がそんな時代だった」
ということから、ある意味、日本人には合っている考え方なのかも知れない。
ただ、今の日本は、そんな大日本帝国時代の悪しき伝統のようなものを、
「悪」
だと捉える考え方もある。
それがいい悪いは別にして、占領軍が日本人に植え付けた、
「民主主義」
という考え方で、その基本は。
「自由」
というものであった。
民主主義における自由というのは、
「自由競争」
という概念であり、ただ自由というだけでは、いくら民主主義といえど、まるで無法地帯と化してしまう可能性があるのだ。
誰もが、好き勝手なことをしていると、どうなるかということは、普通に考えれば分かることだ。
社会のルールと呼ばれるものが機能しなくなるとどうなるか?
きっと、力の強い者が弱い者を支配するという、弱肉強食の時代に入っていく。
一般的な弱肉強食というのは、
「自然界の生態系」
のバランスを取るためのものとして必要なものとして考えられる。
そして今の世の中の弱肉強食というのは、決して悪いことではない。なぜなら、
「法律やルールにのっとった中での自由競争」
というものが、弱肉教職だからである。
だから、民主国家における自由という言葉は、基本的に、
「自由競争」
を前提として言われることなのだ。
自由競争のためには、スタートラインをハッキリさせる必要がある。無法地帯の中で、自由競争などということはありえないからだ。
自由に競争するためには、それだけの土台が必要であり。無法地帯にて、自由競争をしようものなら、やはり結果的に。弱肉強食になってしまい、
「弱ければ、食われる」
という当たり前のことを、いまさらながら思い知ることになるのだ。
そういう意味で、自由競争に興じている人間で、その競争に勝ち続けている人間は、きっと弱肉強食という概念が、他の人とは違うかも知れない。一度も食われるということを実感に感じたことがなければ、それは、本当に感じているとは言えないのだろうからである。
今の30代。40代くらいの人は、ギリギリ受験戦争を知っているくらいであろうか?
そんな中にも、
「受験戦争くらい、若い人だって知ってるさ」
というのだろうが、たぶん、昔の受験戦争と今の受験戦争とでは、違うところもあるのだろう。
試験問題の傾向や、試験のやり方も昔とは違っていたりして、それも、学校側、教育側の都合だったりもする。
マークシート方式など、最初からあったわけではない。
OCRという光学式の用紙ができて、それを読み取る機械ができたことで、可能になったものである。
それまでは、ほとんどが、記述式、選択方式、あるいは、〇×問題というような、クイズに近い試験だった。
マークシートができてから、大学受験も、共通一次から、センター試験へと変革していったわけである。
しかも、昔は、中学に入学する時から、受験をする人が結構いた。今もいるのだろうがやはりここも、
「何かが違う」
といえるのかも知れない。
ただ、受験勉強というと、
「詰込み」
であったり、
「暗記もの」
というものも結構多く、理論で解釈するというものは受験勉強では少なかったという印象だ。
マークシートになると、さらにそれが信憑性を帯びてきて、下手をすると、
「出題を考える方が、受験生のように、回答を導き出すというよりも、難しいのかも知れない」
といえるのではないだろうか?
そんな時代を超えてきて、今社会人として、油の乗った仕事をしている人が多いのだろう。
ただ、
「受験勉強が社会に出てから、役立つということは、ほとんどないけどな」
というのが、ほとんどの人の考えであろう。
つまり、学生時代から社会人になると、一度頭の中がリセットされるようだ。
小学生から中学生、中学生から高校生へと、ステップアップする場合は、そこでリセットされることはない。
小学生から中学生になる時に、
「算数というのが数学に変わる」
というのがあっただろう。
作品名:第一印象と二重人格の末路 作家名:森本晃次