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第一印象と二重人格の末路

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 すでに、四国、九州と平定していて、倒壊から西はすべてが統一されているところに、後北条氏が、いくら、難攻不落の小田原城に籠城したとしても、腰を据えて、包囲すれば、いくら小田原城といえども、いずれは兵糧が尽きるというもの、
 当然、北条方では、いろいろ会議が催されたが、意見が決まるわけもなく、毎日のように、
「小田原評定」
 と言われる、何も決まらない意味のない会議が繰り広げられていた。
 そうなると、裏切る人間が出てくるのも当たり前で、秀吉はそれを狙った。
 さらに、陣の横の山に、城を気づいてしまうと、さすがに、北条氏も、
「これまで」
 と観念し、降伏するに至った。
 その戦において、伊達政宗は、参陣に遅れたのだ。
 当時の東北は、治安が安定していなかったこともあって、いくら秀吉から参戦命令があったとしても、自分の領地が危ないのに、ノコノコ出ていくわけにもいかなかった。
 それでも何とかして、参陣に遅れてでも、小田原にやってきて、そこで秀吉との会見に臨むことになった。
 政宗は、その時、真っ白い着物を着て、会見に臨んだ。いわゆる、
「死に装束」
 である。
 秀吉は、その政宗の覚悟を見て、扇子を政宗の首にあてながら、
「あと一か月参陣が遅れたら、お前の首はなかったかも知れんな」
 といって、許されたという。
 秀吉は、そういう覚悟を持って参陣してきた人間が、基本的には好きなのだろう。
 それに、この会見において、政宗の軍師である、片倉景綱が、下準備をしていたかも知れない。
 秀吉という男は、自分がほしいと思った人間に対し、
「わしの配下になれば、いくらでも都合をつけてやる」
 といって、いろいろな軍師に声をかけている。
 例えば、
「上杉家の直江兼続」
「伊達家の片倉景綱」
 などがいい例であるが、ほとんどの家臣は、
「自分の主君は今の主君」
 といって断ったという。
 きっと秀吉は、
「自分の誘いを断るくらいだから、自分がほれ込んだんだ」
 と思ったことだろう。
 それだけに、
「ますますほしい」
 と感じたのも事実ではないかと感じるのだ。
 そんな景綱が、裏で手をまわしたことで、白装束の衣装が、うまくいったのだろう。そんな部下から慕われる政宗こそ、
「天下無双」
 というイメージを秀吉に見せつけたのかも知れない。
「戦国の伊達男」
 面目躍如というところであろう。
 そんな伊達政宗が秀吉に謁見し、許されたのは、確かに演出をうまくまとめた景綱の功績もあるだろうが、それ以上に、秀吉が実際に会った中で、
「この男なら」
 と感じさせるものがあったからに違いない。
 そのあたりは、人を見る目があるとでもいうのか、逆に、
「それだけの人間でなければ、天下取りなどできない」
 ともいえるだろう。
 そんな秀吉から認められた政宗も、十分に男気があったということだろう。実際伊達政宗というのは、主君として秀吉にも、その後は家康にも忠実に仕えている。
 先見の明があったというのも事実で、その後も伊達家を存続させたのだから、その功績は素晴らしいものだといってもいいだろう。
 そんな伊達政宗は、それだけ、
「人から信頼される人物だった」
 といってもいい。
 しかも、一瞬にして、相手にそのことを分からせたのだから、すごい人物だったのだろう。
 秀吉に謁見した際、下手をすれば、そこで手打ちにあっていたかも知れない。
 確かに、いきなり切り殺されるということはないかも知れないが、ちょっとした作法にミスでもあれば、それを理由に何があるか分からない。それを切り抜けたのは、演出と、その演出に勝るとも劣らない男気を相手見見せることができたからであろう。
 そんな危機を乗り越えたのは、それだけ政宗の第一印象が秀吉の心を打ったのではないだろうか?
 一番考えられるのは、その理由であり、この理由が信憑性という意味でも、一番大きいのではないかと思うのだった。
「人間は第一印象が大切だから」
 ということで、やたらと、初対面の人に対して、無礼のないようにということで、やれ身だしなみであったり、格好よく振る舞うことを強制する親がいたりするのが、今の世の中で、特に昭和の頃は、そんな親ばかりではなかっただろうか?
 いわゆる、
「親バカ」
 と言われる人たちで、自分の子供を、自分のステータスであるかのように利用しようと思っている親がどれほどいたか。
 ある意味、無理もない時代だったのかも知れない。
 戦前くらいまでは、許嫁などというものがあったりして、親が決めた結婚相手と結婚するのが当たり前の時代だったりした。
 さらに戦争中ともなると、出征するために、とりあえず結婚しておくというような、
「駆け込み結婚」
 とでもいえばいいのか、そんなものも目立ったであろう。
「オンナを知らずに、出征をするのは可愛そうだ」
 ということである。
 当時は、軍に入れば、基本的に、生きて帰ることを望んではいけないような風潮だった。
 特攻隊員の遺書の中には、
「立派な死に場所を得た」
 などと書かれた文章があったりする。
「立派な死に場所とは何なのか?」
 今の人間だったら、そう感じるに違いない。
 少なくとも、あの時代は、親よりも天皇陛下、家族よりも、国家という時代だったのだろう。
 大日本帝国という国家自体が、そういう国家だったのだ。
 敗戦後、急速な民主化によって、それまでとまったく違う考え方が、連合軍から強制的に教育された、民主国家になってからもしばらくは、いろいろな地下組織が、
「軍事国家復活」
 などと唱えて、日本の再軍備を真剣に進めようとしていた団体もあったという。
 しかし、当時の日本の混乱は、それどころではなかった。ハイパーインフレで、お金があったとしても、ものがない。お金が紙切れ同然の時代だった。
 街のほとんどは、空襲で焼け野原になっていて、住む家もなければ、その日の食べ物もないという状態の人が街に溢れていたという。
 大人は闇市をやったり、子供はかっぱらいでもしないと、生きていけない時代だったという。想像を絶する時代だったのだ。
 そこから、朝鮮戦争による、
「軍事特需」
 と呼ばれるものによって、次第に食料の供給も安定してきて、いわゆる戦後復興も軌道に乗ってくるようになると。時代は、好景気へと向かっていく。
 完全に独立を果たした日本は、戦後30年くらいの頃は、先進国の仲間入りするくらいにまでなっていた。貧富の激しさという、
「民主主義の膿」
 といってもいい状況ではあったが、大日本帝国のような自由のない国ではなく、本当の自由というものを、民主国家として、国民は手に入れたといってもいいだろう。
 恋愛も自由、結婚も自由。憲法で、定められた、
「基本的人権の保障」
 さらには、
「法の下の平等」
 というものが、大いに叫ばれていたのだろう。

                 第一印象

 人の顔を覚えるのが苦手な、新藤吾郎だったが、そのせいなのか、それとも、人の顔を覚えられなくなったのが、こちらの性格が影響しているのか、世の中というものが、
「必ず、何かが影響している」