第一印象と二重人格の末路
ただ、忠長に関しては、いろいろな悪いうわさもあり、しばらくは、兄として様子を見ていたというところもあったが、最終的には切腹させている。
そして、家光の時代に、完全に幕府の体制は出来上がったといってもいい。
そういう意味では、室町幕府の足利義満といい、三代目で、大体幕府の体制ができあがったといってもいいかも知れない。
ただ、そこから急速に勢いが落ちてくるのも無理もないことなのかも知れない。室町幕府は、八代将軍までも実にひどかったが、八代将軍義政の時代に一気に破滅することになる。
それまで、
「将軍をくじ引きで決める」
などというとんでもない時代ではあったが、義政の時代になり、将軍継承問題に、母親の日野富子が口を挟んできたことで勃発した応仁の乱で、一気に京都は廃墟と化したではないか。
それが直接的な影響ではなかったが、戦国時代の幕を開けたといっても、過言ではないだろう。
戦国時代というと、応仁の乱のあたりからあったことであるが、
守護大名が京都の戦争に巻き込まれたことで、所領を留守にしている間、大名の根拠地で反乱がおこったりして、京都で戦っているなどという場合ではなくなり、大名の多くが、自国に帰っていくということが起こり、結局戦争を継続できなくなったことで、応仁の乱は、決着がつかないまま、終結することになる、
ただ、応仁の乱のきっかけになった、畠山家のお家騒動はまだ続いていて、その戦の後始末などもあり、一気に幕府の力は地に落ちた。
一応、足利幕府というのは存続はしていたが、その力はまったくないに等しいというもので、各地にできた戦国大名を抑えることはできなかった、
中には暗殺された将軍もいるくらいで、実に乱れた時代だった。
鎌倉時代の初期もひどいもので、一種のバトルロイヤルであったが、あの時は、まだ封建制度が確立していない中での問題だったということで、しょうがないところもあったが、戦国時代に関しては、幕府の力の衰えと、
「今なら、謀反を起こして領主を倒せば、自分が大名になれる」
ということで、次々に下克上が起こってきた。
最初こそ、どの大名も、
「天下を統一」
などと考えてはいなかっただろう。
自国を守るということだけで精一杯。そのために、まわりの国と同盟を結んだり、政略結婚や、人質などを送るといった、
「戦国時代ならでは」
というやり方が持たれたのだ。
いつどこから攻められるか分からないということで、砦や城の建設ラッシュが起こった。
城といっても、最初は山城が多く、
「天然の要害」
と呼ばれるところい城を作ってそこで政務を見たりするというやり方が主流になってきた。
だから最初の頃の城には、天守閣なるものもなく、濠もなければ、城下町なるものもなかったのである。
そのうちに、城というものが、ただの軍事要塞だけではなく、君主の権力の象徴と言われるようになり、山城が次第に、平地に平城として作られるようになると、濠であったり、武家屋敷、さらには、城下町などというものが形成され、軍事都市が、商業都市を兼ねるようになった。
それが、信長が提唱した、
「楽市楽座」
というものであったのだ。
信長の安土城、そして、秀吉の大阪城と、どちらも、軍事都市としても、要塞としても、交通の要衝としてもいいところに建てたといってもいいだろう、
安土城は、琵琶湖のほとりということもあり、琵琶湖を横切れば、すぐに京都もいける、大阪城は、京都まで、淀川を上っていけばいけるというところであり、さらに、大阪城は、信長を苦しめた、石山本願寺跡に建設されたということで、かつての、信長に包囲されても、兵糧を運び込めたというところでの地の利も生きてのことではないだろうか?
戦国時代というのは、一歩間違えれば、あっという間に命を落とす時代である。主君といえども、まわりの国は敵だらけ、さらに、部下からはいつ、下克上されるか分かったものではない。うちにも外にも敵だらけなのだ。
それを思うと、自分だけでは生きていけないというのも戦国時代、いかに、軍師であったり、家臣団をうまく形成するかが生き残る道であった。信長が最強の家臣団を作り出し、戦国大名の名だたる人物には、必ず、
「軍師」
と呼ばれる人がいたのである。
そんな中で、
「秀吉には、竹中半兵衛、黒田官兵衛」。武田家に、山本勘助。上杉に直江兼続、伊達家に、片倉景綱」
などと、そうそうたるメンバーがいたではないか。
彼らが、主君を支え、参謀として君臨したから、戦国大名として、天下統一を狙えるほどの大名となれたといっても過言ではないだろう。
そんな大名を押しのけて、もっとも、明智光秀の謀反というのも味方したといってもいいが、秀吉が天下を統一することに成功したのだ。
秀吉は、いわゆる、
「人たらしだ」
と言われている。
天下を取ってからというもの、その力をいかんなく発揮し、政治においても、政治体制もキチンと整えて、豊臣政権を盤石にしている。
そこは、やはり秀吉の人間性にも表れているのだろう。
中には、非情なこともやってはいるが、それでも、家族を大事にし、自分の部下を大事にするやり方は、正直、現代の会社の社長の手本といってもいいのではないか、
サラリーマンのアンケートなどで、
「理想の上司」
というと、トップで家康の名前が挙がるが、これはひとえに、秀吉の晩年が悪政だったことからではないだろうか? 秀次事件、千利休切腹事件、さらには、朝鮮出兵など、まさに、
「常軌を逸した」
ともいえることをしたからだ。
だが、それまでの政治は、家康がマネをするくらいにキチンとできたものであって、それこそ、最期に待っていたことで転がり込んできたような天下取りとは、違うということだ。
家康のすごいところは、天下を取った後に、源氏、秀吉など、3代と持っていないことを苦慮し、自分が生きている間に、徳川政権を盤石にしておくということと、
「元和堰武」
という言葉が示すように、
「応仁の乱から続く、戦国の世を終わらせる」
という大事業を行ったということでの、宣言である。
一度は秀吉が行ったが、秀吉の不幸は、
「自分にとって大切な人がことごとく自分を残して他界していった」
ということにあるだろう。
秀吉の晩年の乱行も、一代で滅んでしまったということも、そのあたりに理由があったのだろう。
しかし、少なくとも、秀吉の、
「人たらし」
と言われる武器で、天下統一をなした天下人だということに変わりはないのだ。
それだけ、秀吉は、きっと人間の第一印象を大切に感じたのではないだろうか?
伊達政宗の一件もそうかも知れない。
伊達政宗は、仙台の戦国大名で、
「生まれるのが、二十年早ければ、天下が取れたのに」
という話も聞かれるくらいであるが、すでに、活躍をし始めた頃には、秀吉が天下を統一していたのだ。
そして、
「惣無事令」
と言われる、秀吉が定めた、
「大名間ので勝手な戦や、隣国に攻め入ったりしてはならあい」
というお触れを破って、後北条氏が真田氏の領地沼田を占領したりしたことで、秀吉が、
「北条征伐」
に乗り出した。
作品名:第一印象と二重人格の末路 作家名:森本晃次