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第一印象と二重人格の末路

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 の発想のようではないか?
 神にも縋るという意識でお参りに来た男に、神が伝えたこととして、
「この寺から出る時に最初に掴んだもの。それが、神のお告げだと思って大切に持っていなさい」
 ということを言われたという。
 そこで、男は最初に掴んだ、
「わら」
 を大切に持っていると、ますは子供をあやすために、藁にハエを括りつけて、子供をあやすと、子供が泣き止み、それを欲しいという、しかし、男は神様からの申し出だからといって断ると、母親がミカンと交換と言われた、そして、同じように、ミカンが反物に変わり、反物が馬に変わり、そして、最期には屋敷に変わるというのが、わらしべ長者の話であった。
 だが、これには諸説あり、変わっていくものが違うことで、別の話も存在するという。
 基本的には、奈良県桜井市にある長谷寺に伝わる話であり、それが、伝わったものであるが、実際には、諸説あるようで、
「交換するものは微妙に違う」
 という話も伝わっているという。
 また、同じような話で、途中までは同じだが、途中で話が変わるパターンも存在するという。
 それは、口伝の時に、実施とは違う話が、それぞれで伝わったということなのか、それとも、話の内容が、流派か何かで、錯綜して伝わったのかであろうが、
「何かの違うものに変わる」
 という意味では、
「限りなくゼロに近いもの」
 というものとは似ているわけではないが、
 どうしようもない、一種のくだらないものが、何度かの節目の元に大きくなり、最期には無限に近づくという意味でいけば、前述の、薄い紙を重ねるという、
「限りなくゼロに近い」
 というものとの逆発想と同じではないだろうか?
 それを考えると、
「世の中の発想、逆から見ても、ほとんど同じことになるのに、発想としてまったく違っていても、結果として辻褄が合うようにできている」
 ということになるのではないかと思うのだった。
「わらしべ長者」
 というのをどう見るか?
 ということであるが、
 おとぎ話にあるような教訓と考えるなら、
「神の教えは絶対だ」
 ということであれば、信憑性はあるが、この話は、
「楽をしてでも、どんどん金持ちになることができる」
 という発想にもなりかねない。
 要するに、
「素直が一番」
 ということを言いたいのだろうが、それ以外に、教訓となるところはまったくないのではないだろうか?
 そんなわらしべ長者の話であったが、どこか捻くれたところがあった吾郎少年は、
「楽してても、そんなにお金持ちになれるんだ」
 とずっと思っていたようだ。
 それが高校生くらいになってから思ったこととして、
「金持ちにはなれるが、偉くなれるわけではないんだな」
 と感じたが、考えてみれば、日本のおとぎ話の、サクセスストーリーに近いものは、そのほとんどが、
「金持ちにはなれるが、偉くなれるわけではない」
 ということを感じた。
 日本の昔というと、封建制度の時代でもあり、出世の簡単にできる時代でもなかった。さらに、そもそも、出世という発想はなかったに違いない。時代としては、
「士農工商」
 という身分制度が確立していたわけではないが、武士の子は武士、同じ武士でも、領主と家臣の差が縮まることもなく、それこそ、戦国時代のような下克上でもなければ、成り上がるなどということはなく、そんな発想が生まれるはずもない。
 さらに、今残っているおとぎ話は、明治時代に教育というものを念頭に置いた時、今日教科書に載せたり、教育の一環として編纂されたものが多い。そんな時代に、庶民が偉くなるなどと言ったことを、子供に教えるというのもおかしな話だ。
 となると、せめて、
「金持ちになる」
 というくらいで話を治めるのが平和だったと言えるのではないだろうか?
 それ以外にも理由はあるのだろうが、ピンとくるのは、これくらいの発想であった。
 明治時代は、元々の封建制度を覆し、明治政府という、中央集権国家を形成していたので、それまでの江戸時代とは、かなり違った発想がある。
 江戸時代の政治体制は、
「幕藩制度」
 といって、今でいう都道府県のようなところには、藩主がいて、それらが大名として、君臨することで、各地を治めていたのだ。
 日本という国というよりも、それぞれの藩を藩主が治め、藩主が幕府に忠誠を誓うことで、自分たち藩が生き残っていた。
 そもそも、封建制度ができた時、つまり鎌倉幕府成立時には、各地に、守護、地頭を置いて、それぞれの地方を統治させたものだ。
 何かがあった時、いちいち鎌倉から軍を組織して出向いていくのでは、手間も時間もかかるからである。下手に鎌倉を留守にして、留守を他の地方から攻められれば、ひとたまりもないことになるかも知れない。
 室町幕府もそれを継承し、そのうちに、幕府の力が弱まると、各地の守護が強くなったり、守護に成り代わって、家老が主人を討ち取り、守護になったりして、いよいよ、
「群雄割拠の戦国時代」
 がやってくるわけである。
 そして、守護大名がそのまま戦国大名となったり、下克上によって成り上がったものが、戦国大名として君臨したものだった。約百年以上続く戦国時代、表に内に、敵がいて、まったく油断のできない時代だった。
 そういう意味でいけば、
「下克上などという自由なことができるのは、時代が不安定なだけで、天下が統一されれば、まず最初に、国家の体制づくりが大切だ」
 ということになるだろう。
 だから、君主になると、
「まずは、自分の体制が壊れないようにすること」
 が一番で、その次には、部下や家臣が、下克上のようなことができないような体制にしておくというのが大切だ。
 だから、天下統一の後、江戸幕府が成立し、初代の家康の時代から、二代目秀忠、三代目家光までの間に、どれだけんお大名が改易となったか。それを考えれば分かるというものだ。
 最初は、元々、豊臣に忠誠を誓っていたが、関ヶ原で自分の側についた大名を次々に改易としていった。
 考えてみれば、これも理不尽なもので、
 関ヶ原の戦いにおいて、石田三成憎しという大名が、家康についただけのことだった、
家康についた諸大名とすれば、本来であれば、
「俺が味方してやったから、戦に勝てたんだ」
 という自負を持ってよさそうなのに、いつの間にか、恩のある豊臣家を裏切らされて、豊臣家を窮地に陥らせたのが、自分たちではないかという後ろめたさもあったかも知れない。
 しかも、そんな気持ちを感じさせる前に、いわゆる元は豊臣家臣だった大名が外様大名として、遠隔に追いやられ、さらに、因縁を吹っかけられ、改易させられていったのを目の当たりにすると、諸大名で、幕府に逆らうものはいなくなってきた。
 加藤清正など、毒殺されたというウワサもあるくらいだ。
 しかも、当時の幕府、特に、二代目秀忠の時代になると、改易はひどくなり、家康の側近であった、本多正信の息子の、正純までも、改易させられたということで、一気に諸大名はビビッてしまった。
 さらに三代将軍家光は、弟の忠長を改易させて、最期には切腹させている。