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第一印象と二重人格の末路

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 目が覚めるにしたがって、ほとんどの夢が曖昧になっていき、その中で覚えている夢はあまりない。下手をすれば、夢自体が時系列がないものという意識があるので、実は、
「夢という記憶の中が、意識と結びつくことで、夢と現実が交錯し、結局、何が夢なのか、さっぱりわからなくなってしまうのではないだろうか?」
 と考えさせられるのだ。
 だから、逆に記憶が曖昧なのは、それだけ、
「夢の共有」
 という意識が、現実味を帯びて感じられるようになっていると、言えるのではないだろうか?
 夢の共有というと、どうしても、異次元のような感覚になったりする。
 そして異次元ということを発想すると、
「パラレルワールド」
 であったり、
「マルチバース理論」
 であったり、タイムトラベルでよく言われる、
「タイムパラドックス」
 などというものが浮かんでくるのである。
 パラレルワールドというものを、実は昔勘違いしていたのではないかと思うようになっていた。
 タイムマシンの発想と、パラレルワールドを一緒に考えてしまうことで、勘違いが起こるのかも知れないが、タイムマシンでよく言われることとして、
「次の瞬間には、無限の世界が広がっている」
 という言葉であるが、実はこの言葉、
「可能性」
 というのが抜けているのだ。
 つまり、
「次の瞬間には、無限の可能性を持った世界が広がっている」
 ということになる。
 要するに、次の瞬間には、無限の可能性。さらに、その次の瞬間には、無限のまた無限の可能性が広がっていると言えるだろう。
 では、一つ気になるのは、この場合の、
「瞬間」
 というのは、どこを捉えても瞬間なのか? ということである。
 つまり、次の瞬間が、十分の一秒なのか、それとも、一秒なのかというだけで広がり方も違ってくる。
「そもそも、瞬間という言葉の定義はどこにあるというのか?」
 理論的に考えると、あくまでも数字はたとえであるが、
「100万の可能性が考えられる時を、一瞬だとする」
 として、一瞬というものを瞬間の単位とすると、数字を当てはめた時点で、無限ではなくなる。
 ということは、無限でなくならなければ、瞬間という定義がないのだとすれば、そもそもパラレルワールドだと思っていた世界の信憑性はなく、矛盾によってつくられたものだと言えるだろう。
 そうなると、まず、無限というものを定義付けなければ説明できないということになり、問題は一切解決しないことになるだろう。
 無限というのを、数学的にどう定義すればいいのだろう?
 一つ考えられることとして、
「無限からは、何で割っても無限でしかない」
 ということだ。
 裏返しでいえば、
「無限には何を掛けても無限である」
 ということだ。
 ということは、元々の数の無限と、答えとして出てきた無限というのは、別物であり、無限というのは、その言葉通り、
「無限に存在しているものだ」
 といえる。
 それだけに、無限というものほど捉えどころのないものはない。
「ゼロに限りなく近い無限」
 というのもあるだろう。
 無限にランクをつければ、ゼロに一番近いものが、
「ゼロに限りなく近い無限だ」
 といえるのだ、
 しかし、
「ゼロに限りなく近い数字」
 というのは、別の意味で存在する。
 このゼロに限りなく近い数字という概念は、
「合わせ鏡」
 あるいは、
「マトリョーシカ人形」
 の発想と同じで、
「どんどん小さくなっていくものが、最期には絶対にゼロにはならず、どんなに小さくなっても、そこは、限りなくゼロに近いものだ」
 という考えであった。
 合わせ鏡というのは、
「自分が真ん中にいて、その左右、あるいは、前後に鏡を置いた時、どのように写るのか?」
 というところが問題な場合である。
 ここから先は理論的な考えで、実際に見えるかどうかということは、難しい発想になるのだが……。
 左の鏡を見た時、自分の姿が、まず映し出されている。その後ろには右の鏡があって、その鏡にはまた、自分の姿が写っていて、その先には、左側の鏡が……。
 というように、合わせ鏡は、どんどん小さくなる自分の姿を映し出していくもので、一見、無限に続いているように見える。
 だが、ここで、
「じゃあ、どこまで続くのか?」
 ということになると、一つの答えとして、
「見えるところまで」
 ということになる。
 しかし、これはあくまでも、一つの答えでしかなく、実際には、
「答えがない」
 といってもいいかも知れない。
 そうなると、結果として、答えは、
「無限」
 という、曖昧な答えになりかねないのではないかと思うのだ。
 そういう意味で、
「無限という言葉は、ある意味、いい加減であるが、都合のいい言葉だ」
 といえるかも知れない。
 発想としては、
「マトリョーシカ人形」
 にも言えるのではないだろうか?
 マトリョーシカ人形というと、ロシアの民芸品の一つで、
「人形が、前後に開く蓋になっていて、そこを開けると、中にまた違う顔をした人形が出てくる。さらに、その蓋を開けると、また別の種類の人形が出てくる」
 というものである。
 人形が、どんどん小さくなっていくという発想から、マトリョーシカ人形も、ある意味、
「無限だ」
 といってもいいのではないだろうか?
 これは、多きなものから、どんどん小さくなっていくものの発想であるが、今度は逆の発想で、
「限りなくゼロに近いものが増えてくると、どんどん大きさを感じるようになる」
 というものである。
 この発想で難しいのは、
「最初に限りなくゼロに近いものをいかに創造するか?」
 ということであるが、幸いにも、身近なもので、そのたとえに合致するものがあるではないか。
 それが、紙という発想である。
 一枚の紙は、実に薄っぺらく、その厚さは、
「限りなくゼロに近い」
 といっていいものだ。
 つまり、一枚の紙は、まったく厚さを持っておらず、数枚を重ねたくらいでは、厚みらしきものを感じることがなくとも、これが100枚になったり、300枚くらいになると、一冊の本ができあがるくらいに厚くなるではないか。
 最初の数枚では、少なくとも、
「厚さなど感じることはない」
 と思うのだが、実際にどこかから、厚みを徐々に感じられ、1冊の本になるくらいの厚みを持つと、急にそこから、現実味を帯びるようになってくる。
 つまり、逆である、
「合わせ鏡」
 であったり、
「マトリョーシカ人形」
 というのも、どこかある瞬間から、大きさを認識できなくなり、そこから先は無限の世界が広がることになる。
 そもそも、終点がどこになるのかが分からないのだから、無限の定義などできるはずもない。
 それだけ無限という発想は、
「その先にあるもの、実際のものと、時間軸とで成り立っているものであり、無限の終点などという概念は、最初から存在していないのではないだろうか?」
 といえるのではないだろうか?

                 歴史観点

「人の顔を覚えられない」
 という発想から、
「限りなくゼロに近い」
 という発想にまで、いかにして辿り着いたか?
 まるで、
「わらしべ長者」