第一印象と二重人格の末路
これが一種のトラウマであり、声をかけることが実際にできなくなったのが、その時だったということを思い出したことで、
「何も言えない時の俺って、きっとこの時のトラウマなんだろうな」
とすべてのことを、この時の自分にだけ押し付けるというのは、自分でもおかしな気がした。
ただ、間違えたのは自分だし、ただ、それでも、一人に押し付けるというやり方は、その場しのぎという意味ではいいのかも知れないが、実際に、後から考えたりした時に、意識の中で辻褄が合っていないことで、
「これがトラウマということか?」
と、自分に納得させる感覚だったのだ。
もちろん、子供なので、トラウマなどという言葉を知らない。言葉は知っていたとしても、その意味は測りかねる。そう思うと、
「これも人の顔を覚えられない理由の一つなんだろうな」
と、あくまでも、理由の一つでしかないのだ。
そう思っていると、自分が人の顔を覚えられない理由が、一つではないことに気づく。
本当に覚えられないという場合である。
「すぐに忘れてしまう」
あるいは、
「次に見た人の意識と混乱し、頭の中で上書きされてしまう」
という考えに、さらに、
「あの時の意識がトラウマとなって、人の顔を覚えられないという感覚が残ってしまって、覚えられないと思い込んでしまっている」
という理由お3つが大きな理由だと思うのだった。
学校に行くと、いつものように知った顔が並んでいる。こういう時は、自分が人の顔を覚えられないなどとは思えないと感じるのだ、
しかし、それから時々見る夢で、普通に学校にいくところまでは、それが夢だとは思えないほどの自然なことなのに、いざ皆がこっちを見たその時の顔が、全員のっぺらぼうだったり、あるいは、誰か一人の顔だったりするのだ。
その時の、
「知らないその顔」
は、知らないわけではなく、すぐにそれが誰なのか分からないというだけで、冷静に考えると、それが誰だか分かる。
それだけに、分かった瞬間、恐怖に襲われる。その顔はなんと、自分の顔だったのではないだろうか?
「俺の顔?」
と思った瞬間に、恐ろしさで何も言えなくなる。
そのまま、呼吸困難に陥って、今にも意識を失いそうになったその時、目が覚めるのだった。
「ああ、夢だったんだ」
と思うと、最期の瞬間以外、思い出せなくなっていた。
それなのに、どうして、そこまでの意識が冷静に語れるのかが分からないが、
「意識として残っているわけではなく、記憶が消えていないだけではないのだろうか?」
と感じたのだ。
ただ、一つ気になるのが、
「記憶が消えているのか?」
それとも、
「記憶が飛んでいるのか?」
ということの違いではないかと思うところであった。
記憶が消えていりのであれば、再生不可能ということであり、思い出すことがないと言えるが、飛んでいるのであれば、戻ってくる可能性もあるということだ。
どうやら、吾郎少年の場合は、
「記憶が消えているのではなく、飛んでいるだけではないか?」
と思ったことで、そうなると、人の顔を覚えられないのは、前者の二つが直接の原因ではなく、トラウマの方が決定的な原因ではないかと感じるようになった。
声をかけるのが怖いことで、
「覚えていないんだ」
ということを、その理由にしようとしたことで、逆に、覚えているかも知れない記憶の中で、覚えていないと感じようとする意識があるので、覚えていないと言ってしまう。
しかし、そう思うからこそ、強く人の顔を忘れてしまうということがあるのではないだろうか?
「トラウマというのは、時として、意識を調節することで、記憶をも抹消してしまうような力があるのではないか?」
と考えるようになった。
記憶というものが、一体どのようなメカニズムになっているのか分からない。たぶんであるが、
「意識が過去形になったことで、記憶として格納されるのではないだろうか?」
と感じたのだが、その考えが間違っているとは思えなくなったのは、
「記憶が飛んだことを、消えたとまで思えるトラウマを感じたからではないだろうか?」
と、感じたからだろう。
そんなことを考えていると、人の顔を覚えられないことと、トラウマの関係を、もっと調べてみたいとも思うようになっていた。
「意識と記憶」
というものを考えた時、
「意識が先にあって、それが記憶になる」
というのが、当然の流れだと思っているが、
「ひょっとすると、逆もあるのでは?」
という変わった考えが頭に浮かんでくるような気がした。
「記憶が先にある」
ということだが、そこには、
「循環」
という感覚と結びついているように思えて、その循環こそが、生態系と呼ばれるものと結びついているような気がする。
「弱肉強食」
であったり、
「食べるものと食べられるものの、バランス」
もうまく行っていないと、どちらかが異常に残りすぎると、その動物だけではなく、他の動物にも影響してくる。
それこそ、一つの種が異常発生すると、食物になる生物に限りがあるわけなので、異常発生した方は、飢え死にということもありえる。食物になる方は、絶滅の危機もあるわけで、そうなると、生態系全体のバランスが崩れてくる。
要するに、全体的なバランスが問題とあるわけで、それは、循環するものすべてに言えることだ。
意識と記憶も循環と関係がある」
と考えると、意識と記憶のバランスは保たれなければいけないこととなる。
少なくとも隣り合わせにある関係なので、それは当然のことだ。
ただ、それは、一人の人間の中においてだけであろうが?
自分の意識と、他人の記憶がリンクしていないとも限らない。普段から一緒にいる人や、家族などの近親者だったりすると、当然そういうこともありえるはずである。
それを考えた時、
「夢」
というのを考えてしまう。
普通夢というと、
「自分の夢に他人が入り込んでくることはない」
と思われがちだが、本当にそうだろうか?
お互いに夢を見ていて、そこにその人が飛び込んでこないとも限らない。
それでは、なぜ人の夢だとは思わないのかというと、
「夢では必ず自分が主役だ」
と思うからである。4
つまり、夢を共有するということは、主役が一人だとすれば、入り込んできた人は、その夢をどういう意識で見ているというのだろう?
二人とも、それを夢だと思うには、どちらも、
「この夢では自分が主役だ」
と思う必要がある。
同じ夢を見ていて、どちらもが主役だと思っているということは、夢を見ている自分がいて、実際に主人公を演じている自分を見ている感覚になるしかないのではないだろうか。
そう思うと、
「待てよ。そういえば、夢の中で、夢を見ている自分と主人公の自分という意識を持ったことがあったような気がしたな」
というのを感じたことがあった。
そう思うと、
「夢の共有というのも、あながち無理な発想でもないというのか?」
と考えることができる。
夢というのは、
「目が覚める寸前の数秒で見るものだ」
というような話を聞いたことがあった。
作品名:第一印象と二重人格の末路 作家名:森本晃次