第一印象と二重人格の末路
という考え方も一つだ。
その逆を考えるのは、あくまでも、自分のことしか考えず、目の前のことしか見えないことで、せっかく手に入れた、実に短い延命も、地獄でしかないと分かっていれば、必死になって生き残りを考えるであろうか?
どうせ、自殺をする勇気もないのだ。その時点で、
「何かにしがみつくしかない」
と思えばそれこそ、そのままでしかないのだ。
生き残るということが、本当に幸せなのかと思うと、大学時代に卒業する夢を見たことも、どこかで繋がっているかのように思うのだった。
吾郎は、第一印象を大切にするということから、今までに、一目惚れした人以外を好きになったことはない。女性によっては、次第に吾郎のことを好きになってくれる人はいるのだが、吾郎自身が好きになったり、相手が第一印象で好きになったわけではないと思うと、その女性を信じることができないのであった。
吾郎は思春期になるのが、高校の途中と、相当遅かったにも関わらず、一目惚れだけであれば、思春期に入る前にも何度かあった。
異性を好きになったという意味では変わりはないのだが、思春期になるまでの感覚というのは、
「一目惚れして終わり」
だったのである。
つまり、まるで線香花火のように、燃え尽きるだけのような感じだった。
「ひょっとすると、そういう感情が思春期の前にあったから、なかなか思春期に入れあかったのかも知れない」
と感じた。
一目惚れから、女性を好きになるという段階的な気持ちの節目を、思春期前では乗り越えることができず。結果、
「俺には、結界を乗り越えることができないんだ」
という思い込みから、思春期に入ることができなかったのかも知れないということではなかったのだろうか?
思春期を乗り越えるということは、自分にとって、まずは、入ることが困難であった。
他の人は無意識に入り込めるのだろうが、吾郎は、
「俺は、思春期に入れないかも知れないな」
という思いがあったがために、無理に意識しなくてもいいのにしてしまったことで、
「思春期に入るタイミングを逸してしまったんだ」
と考えるようになった。
中学二年生になっても、入らない。
「まあ、まだこれからか?」
と思い、三年生になると、今度は、
「受験と引っかかるので、できるなら、ない方がいいか?」
と感じたのでその通りになったのか。
しかし、高校に入ると今度は後悔した。
「高校に入学するために、思春期を犠牲にしたわりに、高校生活はそれほどいいものではない」
と感じたからだ。
何と言っても、自分が最低ラインと思っているクラス内のレベルを、完全に下回っていたからだ。
「こんな高校生活のために、俺は思春期を犠牲にしたというのか?」
と、後悔の念に襲われていたのだった。
高校一年生でも、自分の中に思春期というものは、芽生えてくることはなかった。
「もうしょうがないか。余計なことを考えるだけ時間のムダだ」
と考え、あきらめの境地に至ろうとしたその時、まるで、忍び寄ってきたヘビが、するりと穴の中に忍び込んでくるような感じで、気持ち悪いものだった。
「これが思春期という感情か?」
と思ったのが、すでに高校二年生も終わりに差し掛かっていた頃だった。
だが、気が付いたのがその時だったということで、実際に入ったのがいつだったか、自覚はなかった。高校二年生になってすぐのことか。それとも、気付く寸前くらいだったというのか、きっと、気付いた時に忘れてしまったのだろう。まるで、夢で見たことを覚えていないかのようではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「思春期がいつから始まったのかということを、皆自覚があるんだろうか?」
と思って、聞いたことがあった。
数人に聞いてみたが、
「あったよ」
という人と、
「いや、俺は分からなかったな」
という人と、バラバラだったのだ。
ということは、
「あまり気にしなくてもいいということか?」
と自分の中で結論付けたが、どちらも人もいる以上、思春期に入るタイミングを知るということが、大切なことではないということであろう。
「分かっていようがいまいが、思春期を抜けた時は分かるもので、終わった後で、ああ、これが思春期だったんだと分かる仕掛けが、人間らしいといえば、人間らしい特徴なのかも知れない」
だが、吾郎は、思春期に入る前に。女の子を意識していたことを後になって知るというのも、
「まるで思春期のようではないか?」
と考えると、
「思春期というのは、一度だけではなく、小学生くらいの頃に、似たような感情が、数回くらい襲ってくるものなのかも知れない」
と感じた。
しかし、それはあくまでも、無意識に起こることのようで、共通点は、
「後になって分かる」
ということであり、入った時のきっかけは、覚えている時と覚えていない時がある。
逆に言えば、あっさりと忘れるか、粘着で忘れることができないのかということであろう。
そんなことを考えていると、小学生の頃に好きになったと思われる女の子、それも最初の女の子が、そのまま自分の好みの女性になったようである。
「なったようである」
というのは、高校の時に、思春期に入ったであろうその時、最初に気になった女の子は、小学生の時に好きだった女の子とはタイプが違っていたからだ。
どうして違ったのかというのを考えれば、すぐに分かったのだが、小学生の頃に好きだった女の子は、どちらかというと大人しめな子だった。
だが、高校二年生の時に好きになったのは、大人しめというよりも結構活発なタイプの女の子で、細身の子だった。
身長もあって、どちらかというと、
「キレイ系の女の子」
だったのだ。
だが、それ以降でも、自分が好きになる女の子の中にはいないタイプで、その子は、おとなしそうに見えたのだが、活発だったこともあり、表情が豊かだったのだ。
「なぜ、その時この子が好きになったのだろう?」
と思うと、その時の自分が、
「制服フェチだ」
ということに気づいたことだった。
逆にこの時気づいたおかげで、自分が制服フェチだという自覚もできるようになったのだし、基本的には、制服が似合いそうな女の子が好きだったのだが、その子がその時は一番似合って見えたことから、いつものタイプではないのに、好きになったのだった。
だが、
「元々、こういうタイプも好きなのかも知れない」
と思うと、
「俺は、女の子を見る時、制服が似合うか似合わないかで判断しているのではないだろうか?」
と考えるようになった。
「たまたま、その時が、思春期の一発目だったということなのか、それとも、思春期の一発目にくるように、自分の中で無意識に操作したのか?」
とも考えられた。
だから、
「思春期が他の人に比べて遅かったのではないか?」
といえるのではないかと考えるのだった。
「そっか、基本制服フェチなので、まずは、制服が似合うということが大前提にあって、そこから好みが決まってくるのかも知れないな。そう考えれば、制服の種類によって、似合う見合わないが決まると思うし、自分がどこまで想像できるかということが問題なのではないのだろうか?」
作品名:第一印象と二重人格の末路 作家名:森本晃次