第一印象と二重人格の末路
「まるで、こいつ変態だな」
と思っていたものだ。
その考えは、至極まともなもので、今でも、そう思っている。しかし、いざ自分がやると、それは変態だとか、汚いものを見るかのような視線を自分で浴びせるような気にはならないのだ。
まさに、
「自分のことを棚に上げて」
ということになるのであろう。
大学に入ってからは、そもそも制服というものがないので、それまでと同じ感覚で見てしまうと、また以前のように、女性に興味を持たなくなるという、思春期以前に戻ってしまうのではないかと思っていた。
大学キャンパス内の女の子は、それなりに華やかで、実際には、好きになりそうなレベルの女の子は結構いた。
だが、なぜか、同じ大学だとそのことを感じない。ただ、それが、少し感覚として違っていることを感じたのは、アルバイトを始めた時だった。
バイトを始めたのは、一年生の学園祭の前くらいだっただろうか? 夏休みが終わってから、本格的に始めた。
吾郎は、正直夏に弱かった。特に炎天下の作業は、
「生死にかかわる」
とまで思っていたほどで、中学、高校の頃、朝礼で、最初に立ち眩みを起こすのが、吾郎だった。
熱中症のような感じで、救急車が来るほどのことはなかったが、不思議なことに、一人が倒れれば、一人で終わるということはない。
つまり、吾郎が倒れたのを見て、その様子に、我慢の限界近くまできていた人が、バタバタと倒れた。逆にいえば、他の誰かが倒れていても、吾郎は早期に倒れた生徒の一人ということになるのだろう。
そんなことを考えていると、
「俺が、倒れたことで、皆の緊張感が一気に切れてしまったということか?」
と考えると、
「俺という人間は、まわりを誘発するかのような力を持っているのかも知れない」
と、甚だしい考えにいたるものだった。
ただ、自分の様子を見て、我慢できなくなったというだけで、誰もが皆倒れるわけではない。
逆にいえば、いつも最初というのは、それだけ、我慢が足りないというか、
「最初から我慢というものをする気がないのかも知れない」
ということになるのであろう。
そんな最初に、倒れることを、きっと他の人は、
「恥ずかしい」
と目立つことを避けたいと想っているに違いない。
だが、吾郎は違い、
「苦しかったら、我慢などする必要はない。我慢すれば、苦しみが次第に消えていくわけではなく、究極に気を失って意識不明で倒れることを思えば、最初からギブアップしている方がどれほどいいと言えるだろうか?」
と考えていたのだ。
「高校生の頃であれば、その頃から異常気象は叫ばれていたのに、朝礼などというナンセンスなことをして何になるというのか?」
と思っていた。
昭和の時代だったら、
「我慢することを覚えないと、社会では渡っていけない」
ということを言われるに違いない。
しかし。我慢することは、誰かに誘導されて覚えることではなく、自分がいかに感じるかということで、
「我慢が美徳だ」
と思うのであれば、心おきなく我慢すればいい。
人それぞれで違うものなのに、それを意識してすべての人間に押し付けるのはどうかと思う。
しかし朝礼も、
「出たい人だけ」
などとすると、まず出てくる人もいないだろう。
今の世の中、例えば政府通達などを聞いて、国民の大多数は、自分勝手な発想で、それが人の迷惑になることであろうが、どうだろうが、感じたまま行動する。
数年前にあったパンデミックによる世界的な伝染病の流行で、ある市長が、
「感染対策を十分に行って、楽しんでください」
というのを、ハロウィンで言ったのだ。
しかし、その時、首都の知事や、日本第二の都市の指示は、
「都心部で集まって騒がないでください。仕事が終わったら、すぐに帰宅してください」
というようなことを言っていた。
それでも。蓋を開ければ。目抜き通りや、待ち合わせのメッカなどでは、パンデミックがなかったかのような盛り上がりを示していた。
あっちがそうなのだから、
「楽しんでください」
などと言われたところは、本当に楽しんでいる。
何しろ、警察が出動し、逮捕者が何名か出たほどだったのだ。
市長は、民衆の心を分かっていない。
「来ないでくださいと言われれば、出てくる。感染対策をしっかりして楽しんでくださいと言われれば、言葉の都合の悪いところだけ切り取って、楽しんでくださいだけを免罪符に、遊ぶのだ」
といえるだろう。
つまり、基本は楽しむというところにあり、そして何かあった時の言い訳として、
「皆がやっているから」
という集団意識で逃れようとするのだった。
出会い系などのやり方
実際に、パンデミックは爆発的な流行を生み出し、冬が本格的な感染だというのに、ハロウィンで広げてしまったウイル氏を、そう簡単に抑えることができるわけがない。
医療はひっ迫し、救急車を呼んでも、数時間来てくれない。あるいは、救急車が来ても、受け入れ病院が見つからず。そのまま救急車の中で死んでしまうという例や、
病棟が十分に準備されているわけではない状態なので、ほとんどが、自宅待機となった。この病気の特徴として、
「それまでたいしたことのなかった人が急に苦しみだし、あっという間に絶命していたというのも珍しくないだろう」
急変したことで、そのまま自宅にいて、助けを求めることもできず、それこそ、孤独死のようなことになるという、悲劇が、全国で頻繁に怒っていた。
その人は死んでも死にきれないだろうし、その状況を目の当たりにした人は、恐怖におののいたことだろう。
「もし、あれが、自分だったら」
とさすがに考えてしまう。
そして、そう考える大半が、その少し前に、ハロウィンでバカ騒ぎをした連中だということは疑いようのないものであろう。
「7ハロウィンで、バカ騒ぎなんかしなければよかった」
といっても後の祭りである。
しかも、その時には、
「どうせ死ぬ時は死ぬんだ」
と思っていたくせに、助けを求めることもできずに死んでいった人を考えると、怖くなるというのは、それこそ小心者の証ではないだろうか。
要するに、
「我慢することはしないくせに、自分だけは助かりたい」
と思うのだ。
最初は人のことなど関係ないと思っていて、しかも、
「死ぬ時は死ぬ」
とまるで他人事のように思っていたくせに、いざ、本当に死というものが目の前に迫ってくると、
「自分だけでも助かりたい」
と思うことだろう。
しかし、そんな連中に限って、ただ助かることだけしか考えないだろう。つまり、自分だけが助かっても、まわりが皆死んでしまうと、最終的に自分だけがその状況を我慢しなくてはいけなくなり、もう一度、死の恐怖を、今度は一人で味わわなければいけなくなり、結局、
「だた、一瞬だけ、他の人よりも生きた」
ということだけにしかならないのだ。
人よりも生きたといっても、その部分がすべて死への恐怖でしかないということは、少し考えれば分かりそうなことだ。
皆死んでしまうことがある程度確定しているのであれば、こここで、生き地獄を見るしかないのであれば、
「一思いに」
作品名:第一印象と二重人格の末路 作家名:森本晃次