第一印象と二重人格の末路
二年生の時、アルバイトや部活で、勉強はロクにしなかったということと、情報収集を完全に怠っていたことで、まわりに聞けば、どんな問題が出るかということまで情報として回っていたので、そこだけ勉強すればいいという科目も多かった。
それを知らずに、まともに普通の勉強方法でやっていて、しかも、その方法が正攻法だったのだ。
「大学生には大学生なりの勉強法があり、答え方も、大学生として決まった答え方があるんだ」
ということを聞かされた時、
「ああ、俺はなんと甘かったんだ」
と感じた。
学校側も、そんなことは百も承知で、先生によっては、講義中に、試験問題を公開する人もいるくらいだった。
いくら、友達とはいえ、こちらから聞かないと、その情報が教えてくれないだろう。なぜなら、
「皆知ってることだからな」
と言われればそれまでであり、特に、論述式の回答は、
「模範解答があるので、その通りに覚えていって、適当に自分の言葉に変えて答えればそれでいい」
ということなのだ。
そんな大学の試験において、大切なことが情報だった。情報さえ知っていれば、闇雲に勉強する必要もない。
毎年同じ問題が出ていて、模範解答も出回っている。下手をすれば、丸暗記して、そのまま回答しても、単位はもらえる。
だが、そもそも、試験というのは、そういうことでいいのではないか?
何も、落とすのが試験ではない。キチンと、教えたことが学生のためになっているかどうか。それを試すのが試験ではないか。
何も、すべての範囲を勉強しようが、
「ここだけしっかり抑えていればそれでいい」
というところがあり、本当にそこだけ、勉強すればいいのだ。
丸暗記だとしても、暗記するには、しっかり文章を理解する必要がある。まさか、1文字目と2文字目の言葉の間の関係性を考えたりなどして暗記する人はいないだろう。必要な単語を切り取って暗記し、それを理解したうえで、言葉をつなげ手いく。ある意味、これが勉強といえるのではないかと思うのは、少し強引だろうか?
確かに勉強というものが、いかに一つのことに集中して覚えるかということに関わっていくのかも知れないが、教授にもいろいろな人がいて、実際に教授の都合というのもあるかも知れない。
だが、それで学生もいいのだから、別に問題はないだろう。そう思うと、それだけ、大学の講義というのは、高校までのように、文科省からの指導があるわけでもないので、かなり自由だということであろう。
だが、そんな大学で、大人になってまで、夢に見るようなトラウマを負わされるとは思ってもいなかっただろう。
確かに、大学というところ、高校時代の先生の中には、
「レジャーランド」
といっていた人もいた。
なるほど、その教師も大学を出て先生になったのだから、自分もそのレジャーランド出身ということだろう。
それだけに、吾郎は怖かった。
最初こそ、
「この苦しい大学受験さえ乗り越えれば、後はバラ色の人生が待っている」
ということだったのだ。
何とか、運がよかったと本人は正直思ってるが、大学受験では浪人もせずに、合格することができた。
大学に入ってしまえば、それほど必死に勉強することもないだろう。
「なんといってお、高校の頃の先生が、レジャーランドだと言っていたではないか?」
と感じたのだ。
確かに、大学というところの印象として、高校時代に聞いた言葉として、海外との違いを比較した際に、
「一般的に言われていることだが、諸外国では、大学の入学にはさほど、苦しくはないが、卒業には結構厳しいものがあるのに対し、日本の場合は、入学するための試験が、ハンパないくらいに難しいが、卒業は比較的簡単だ」
と言われていたのを、そのまま鵜呑みにしていたのだ。
少々極端ではあるが、
「入学してしまえば、こっちのもの。卒業を約束されたも同然だ」
ということになるのだと思えたのだった。
その思いが完全な油断だった。
なるほど、先生の言うような、レジャーランドのようなところだった。大学というところは、来るだけで楽しい。なぜなら、必ず、友達と言える人がいるからだった。
高校時代まで、友達らしい友達がいたわけでもなく、しかも、思春期が高校時代の半ばころということで、異性に対しての感情も結構あった。
しかし、一つ不思議だったのだが、異性に対して気になっているにも関わらず、どこか釈然としないところがあるのも事実で、特に大学に入ってからは、
「彼女がほしい」
という発想よりも、どちらかというと、
「友達と一緒にいる方が楽しいな」
と感じる方が強い時があった。
そんな時、急に我に返って、
「いやいや、それとこれとは別のことで、友達と、彼女がほしいと思う感情って、まったく違うものではないか?」
と感じるのだった。
そう思うと、アルバイトなどで、女の子がいると、意識してしまう。
「同じ大学にも可愛い女の子だってたくさんいるではないか?」
と言われることだろう。
そのことも十分に承知していることなのだが、この感情は、高校時代の感情を思わせるものだった。
あの頃、つまり、異性に興味を持ちだした頃も、考えてみれば、同じ学校の女生徒には興味がなかった。
後から思えば、
「うちの高校の制服に興味がなかったからではないか?」
と思えた。
他の学校の制服が非常にかわいくて、いつもそっちに目を奪われていた。気になる制服の部位としては、
「紺色のハイソックス」
というものが好きだったのだ。
ニーハイとまではいかなくても、ソックスが膝くらいまであると、制服のスカートの丈も自然と短くなる。それを見ているとゾクゾクするのだ。
自分の学校の女の子の中には、他の学校にファンクラブができるほどのアイドル的存在の女の子がいた。
しかし、吾郎は、そんな女の子であっても、自分の視界に入ってくるわけではなかった。あくまでも、気になっているのは、
「他校の女の子」
であり、基準となるのは、制服だということに間違いはないのだった。
そんな吾郎の性癖は、吾郎の身近の人には、簡単に看破されたが、あまり吾郎を知らない人は、そんな性癖があるなど、想像もしていないに違いない。
つまり、吾郎の性癖を分かる分からないというところには、明確なボーダーラインがあり、そこがまるで、
「結界」
といってもいいような場所であることは、
「知る人ぞ知る」
ということであった。
中学を卒業した時は、確かに、異性への意識はなかったはずだったが、制服への意識だけはあったような気がする。
「気が付けば、高校生のお姉さんを目で追っていた」
という意識があったからだ。
しかし、異性に興味を持つ前だったので、自分でもどうしてお姉さんを見ていたのか、理解に苦しむほどだった。
しかし、思い出してみれば、
「制服を目で追っていた」
と思えば、納得がいくのだった。
その時は、自分の性癖が、変態的な、フェチだという意識はなかった。
「可愛いと思うものを目で追って、何が悪いというのか?」
と考えるほどで、そのくせ、中学時代など、制服や、女の子を無意識に目で追っている同級生を見て、
作品名:第一印象と二重人格の末路 作家名:森本晃次