五感の研究と某国
そんな状態を、神様が許すはずもない。その罰として、発生元を分からなくして、困らせようとしていると考えるのは、少し乱暴なことではないだろうか?
嗅覚において、臭いに慣れてしまうと、本当に怖いというものだ。
もし、それがガスなどであり、爆発性のあるものだったり、有毒なものであれば、それこそ、
「シャレにならない」
ということになるだろう。
人間が臭いを嗅ぐというのは、栄養を摂るために、食欲を増進させるために、匂いによる条件反射で、胃を活性化させるという効果がある。
そして、もう一つは逆の効果として、異臭というものを感じると、
「これはガスだ」
ということで、自分に危険が迫っていることを感じることになる。
そういう両方の意味が嗅覚にはあるので、臭いを感じるというのは、生きていくうえで、実に重要なこととなるのだ。
それを感じなくなるとどうだろう?
食欲はなくなり、何を食べてもおいしくなくなってしまう。
きっと、匂いがしないということは、味もしないのではないかと思う。味というのは、匂いを嗅いで、舌でその微妙な感覚を味わうことで、
「おいしい」
と感じるのだろう。
だから、匂いがせずに、味だけだったら、どんな味なのか、想像がつかないのではないだろうか。
もちろん、最初から匂いという概念がない場合と、途中からいきなり匂いを感じなくなった場合とでは、その様相がまったく違ってくることであろう。しかも、栄養補給という観点と、危険退避という観点からでも違ってくる。何しろ正反対の感情だからだといってもいいだろう。
そんな中において、サイトウは、臭いだけではない、他のものも、
「どこから来るのか分からない」
という点で気になっていることがある。
これは、サイトウだけではないだろう。むしろサイトウ以外の人は最初にこっちの方を思い浮かべて、臭いの方は、すぐには頭に浮かんでこないに違いない。
というのは、その元となるものが、
「音」
であるからだった。
音というと、感じる身体の器官は、
「耳」
である。
耳というのも、目と同じように錯覚をすることが結構ある。そういう意味では、味などのような味覚や匂いなどのような嗅覚というのは、そこまで錯覚を起こさないかも知れない。
しかし、たまに年末の特番バラエティなどでやっている。
「ランク付け」
というものをする中で、
「目隠しをして、臭いを嗅がせたり、何かを食べさせて、本物を見分ける」
と言ったようなことをやって、結構自信があると言っている人でも、簡単に間違えたりする。
目隠しをするのは、当然のことで、一つの五感だけで感じるものだから、視界が広がっていれば、感覚が鈍る。つまり、錯覚を起こしやすいというのは、当たり前のことであろう。
それを考えると、
「本当は、一つのことに集中させるための目隠しは。逆に人間を狭い範囲に追い込むことで、却って、錯覚を与えることになるのではないか?」
とも考えられる。
番組のスタッフも、そのことを分かっていて、
「バラエティなのだから、正解を求めているわけではない。芸人や芸能人が、真面目にやって、それがハプニングを産めば、そこに取れ高が生まれるんだ」
と思っていることだろう。
そういう意味で、ハプニングを求めるのに、目隠しというシチュエーションは、結構楽しいものがある。
それに、
「五感の一つを集中させることができるから」
というもっともらしい話を聞かされれば、却って、出演者も真面目になるだろう。
普段から笑わせようと思っている人は、たまに、こういうハプニングというものが、笑いを誘うということを、敏感に感じ取っているだろうからである。
それを思うと、
「目隠しをすれば、その時点から本気モードになる」
と考える人は多いだろう。
見ている方は、目隠しによって、緊張感を煽られるが、ハプニングが起こりやすいということも分かっている。そういう意味で、倍楽しめるのかも知れない。
その芸人の本気度と、いつかは起こるであろうハプニングを期待している自分がいることも、感じることができるはずだからである。
目隠しをして、
「さあ、どちらかのお肉は、松阪牛の最高級のステーキ、もう片方は、スーパーで、298円の激安のステーキ、どっちがどっちか、味わっていただきましょう」
と司会者がいうと、緊張感が一気に高まる。客席はざわめき、笑いが止まると、芸人の中で、何かのスイッチが入るのだろう。
結構、五感を試すようなクイズであったり、バラエティ番組は、今に限らず、昔から続いてきたものと言えるのではないか?
特に、芸人が、苛められるようなシーンが目立ってきた、平成以降では、それがまるで当たり前のようになってきた。
昭和の頃であれば、コントのような番組であっても、親は子供に、
「有害番組だ」
ということで見せなかったり、あるいは、放送局に抗議デモを展開したりというようあこともあったりするくらいではないだろうか?
今でも語り草のようになっているものもあるくらいで、考えてみれば、その頃というと、学校で苛めなるものがあったとしても、今のような苛めとはわけが違っている。相手を傷つけるような苛めをすることはなく、
「苛められる方には、それだけの理由が、必ずあった」
といってもいいだろう。
しかし、平成以降の苛めというと、闇雲に、
「むしゃくしゃするから、誰でもいいから苛めてやろう」
ということで、ターゲットになってしまうと、
「運が悪かったな」
ということになってしまうだろう。
苛めというものは、それなりにルールがあるものだ。それはまるでプロレスのようなもので、プロレスを見ていて、その本質を知らない人は、
「人が人を傷つけて、何て野蛮なんだ。それを見て喜んでいる人間って、本当に恐ろしいな」
と思うことだろう。
しかし、
「これはあくまでもスポーツで、鍛え上げられた身体を駆使して、さらに、いろいろな技を使って、相手をフォールすれば、自分の勝ちだ」
というスポーツなのだ。
もちろん、ルールが存在する。
中には、ルール無視の、
「ヒール」
と呼ばれる悪役レスラーというのもいて、リングを盛り上げているのも事実だろう。
しかし、見ている人は、
「自分にはない体力と力を持った人が、技を駆使して、同じような格闘家と勝負する」
というのだ。
何も、訓練も何もしていない、普段から運動すらしていない人を相手に、レスラーが一方的に攻撃するわけではない。
お互いに訓練を重ねてきて、その技を競うというのが、プロレスだとすれば、他のスポーツと何が違うというのだろう?
その凶暴性が、
「教育上、よろしくない」
というのであれば、それこそ、
「R―18指定」
に最初からしておけばいいのだ。
それは、殴り合いに見えるボクシングでも同じこと、相手を吹っ飛ばす相撲だって同じではないか。
相撲などは、日本の国技で、それこそ、
「神様に奉納する」
儀式でもあり、横綱ともなると、
「神の使い」
と言われるくらいではないだろうか。