小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

五感の研究と某国

INDEX|7ページ/23ページ|

次のページ前のページ
 

 二人は、そんなことを考えながら、その日はいろいろと、それからも議論を重ねたが、あまり飲めないと思っていたサイトウはその日、かなり酔っていることに気づかないほどに、会話が充実していたのだった。

                 電子音の錯覚

 教授は結構強い方であったが、あまり強くないサイトウでも、今日の中身の濃い会話自体に酔っていたことで、それほど、最初は酔っていることに気づかなかった。しかし、元々弱いということもあって、酔いが回ってくると、一気に来るのは、しょうがないことのようで、尿意を一度もよおすと、堰を切ったかのように、何度もトイレに行きたくなる時の感覚に似ている。
 それも、やはり、酔いが深い時だというのも、皮肉なものだといってもいいかも知れない。
 話の内容によっては、それほどの酔いがひどくない状態であったのだが、いきなり来るというのがどういうメカニズムなのかと思っていたが、その日は、自分でも分かっているような気がした。
 サイトウが最近気になっている研究に、
「例えば個室などで、異臭がした時、どこからくるものか調べようとして、中に入った時、すぐにその臭いに慣れてしまうのか、どこから来ているものなのか分からなくなってしまう」
 ということがあるとする。
「そんな時に、どうしてそのように、まるでわざとでもあるかのように、はぐらかすとでもいえばいいのか、発見しなければいけないことが発見できない原因が、どうやら人間の本性にあるのではないかと思うと、皮肉な気がしてくる」
 と考えるのであった。
 人間社会において、そのような、皮肉めいたことというのは結構あるもので、それが、身体が感じる、
「五感」
 というものに、直結しているのではないか?
 そんな考えを持っているのは、サイトウだけではない。
 かくいう教授もその一人で、少なくとも、教授の研究員のほとんどは、そうなのであろう、
 ゼミ生の中にも、
「明らかに、それに類する人はいるのではないか?」
 と思える人も結構いて、
「その発想が学者を目指している研究員には、大切なのかも知れない」
 と感じるようになっていた。
 今日の教授との話の中で、
「四則演算の法則」
 のようなものを、まさか、理論物理学の世界や、宇宙論にまで発想を伸ばせるとは思っていなかっただけに、考えただけで、すごいと感じるのだった。
 それにしても、自分が研究に勤しんでいる内容が、人間の本質と重なっているというところがもどかしい気がする。
 例えば、一番厄介な考え方が、
「慣れ」
 というものである。
 この考えは、ある意味、難しい発想だといってもいいだろう。
 慣れというものは、ある意味、恐怖であったり、苦痛などという、ネガティブで、継続性のあるものの代表ではないだろうか? もちろん、
「一瞬で終わる」
 ということがハッキリと分かっていて、それが証明されているものだとすれば、それは、そこまで考えることはないだろう。
 どんなに苦痛であっても、恐怖であっても、一種で終わるものを、それほど、恐怖とも苦痛とも思わないからだ。
 だが、一つ問題として、
「夢の中での出来事」
 という発想がある。
「夢で、どんなに苦しくても不安であったとしても、目が覚めてしまうと、その感覚はまったく残っていない」
 それは、
「夢の世界と現実世界がまったく別の世界に存在しているからではないか?」
 と考えられるが。それだけではないような気がする。
 そこに、継続性がないからだと最近のサイトウは思うようになっていた。
 つまり、
「夢というのは、どんなに長いものでも、一瞬で見るものだ」
 という話を聞いたことがあるが、まるで、それを証明しているかのような発想に、自分で酔っているくらいに感じていた。
 さらに、夢というものを調べてみると、
「夢というものは、どんなに長いものでも、目が覚める寸前の、数秒で見るものだ」
 と言われているという。
 この話は、今調べたから初めて知ることができたわけではなく、かなり昔。そう、子供の頃に誰かから聞かされた気がしていた。それも、幼い頃の遠い記憶なので、誰だったのか思い出せない。
 しかも遠い記憶には、その距離が次第に曖昧になってくる。
 遠ければ遠いほど、それぞれの距離が離れていても、こちらから見ると、微々たる郷里にしか見えないのだ。
 ただ、最近は、時間の感覚がマヒしてきているように思えて仕方がない。
 それは、
「若年性健忘症ではないか?」
 と言われるかも知れないと感じるほどの極端に感じるほどで、
「昨日のことなのか、今日のことなのか分からない」
 というほど、ひどいこともあるくらいだった。
 ただ、それも、毎日が同じような感覚になっているからではないかとも感じている。
 研究所で毎日同じルーティンを繰り返していると、そのようなことになりかねない。
 というのも、
「やっている研究は、毎日、牛歩ではあるが、着実に前に進んでいて、やりがいはある」
 と思っているのだが、一日の中の一つの行動とすれば、毎日代わりのないことなのだ。
 充実はしているが、それは研究所内だけのことであって、一歩表に出ると、やっていることは同じだと思えてならないのだ。
 これも、一種の、
「慣れ」
 というものではないだろうか?
 臭いに慣れてしまうことで、異臭を見つけることができないという負の連鎖をいかに解決することができるか。つまり、それを人間の中にある自浄効果のようなものが働いて、無意識のうちに、自浄できる自分を作り上げたいと考えることができれば、そこから先、止まっているであろう研究が、自分を中心に花開いていくのではないかと思うと、感無量となるに違いない。
 そんな、
「慣れ」
 というものが、負の連鎖、つまり、
「負のスパイラル」
 を形成しているのだとすれば、そこで連鎖をぶち破る何かが必要だということになるであろう。
 そこで着目したのが、
「どこからその臭いがしているのか分からない」
 という原因部分であった。
 もちろん、それが分かれば解決だということなのだろうが、それを原因としてではなく、それ以外の何かとして見ることができるかというのが問題なのだ。
「慣れ」
 というものが、今度は、
「どこから発生するものなのかが分からない」
 という現象に結びついてくるのは、容易な発想だと言えるのではないだろうか?
 逆に、
「発生元が分からないという発想が、慣れからくるものだということに、意外と分かりそうでなかなか気づかないものではないだろうか」
 人から言われて、
「ああ、そうだ」
 となるのだろうが、それが、どこで来る発想なのかということが問題だった。
 考えてみれば、慣れるということは、感覚をマヒさせることであって、感覚がマヒしてしまうと、心地よさからなのか、ついつい自分に甘えてしまう感覚になってしまう。
 だから、慣れを感じ始めると、自分の中で、
「楽ができる」
 という考えに至ってしまうのか、それが、マヒに繋がるのだろう。
作品名:五感の研究と某国 作家名:森本晃次