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五感の研究と某国

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 という命題に対して、信憑性のある答えは今でに出ているわけではない。
 考え方はいくつかあるが、答えに至るものはないのだ。どの考え方も、
「帯に短し、たすきに長し」
 と言ったところであろうか?
 ということなので、
「サッチャー錯視」
 という考え方も、答えが出るわけではない。
 それだけ、この二つの考え方が酷似しているということであろう。
 しかし、サイトウは、この二つを分離して考えている。
「鏡の発想よりも、サッチャー錯視の考え方の方が、信憑性があるのではないだろうか?」
 と考えているわけで、
 サッチャー錯視からの研究を進めていた。
 しかも、こちらは、視覚だけからではなく、他の五感で研究したものとを組み合わせるように考えていた。
 つまりは、
「視覚は、他の五感の部位の集大成だ」
 と考えていたのだ。
 そもそも、研究が、
「ステルス性」
 ということなので、当然、視覚というものが一番深く掘り下げられるものだといってもいいのではないだろうか?
 それを感が合えると、
「サッチャー錯視を考えた人の考えを聞きたい」
 と考えるようになったが、それは無理なことであった。
 ただ、一つサイトウが懸念していることがあるのだが、
「サッチャー錯視というのは、ひょっとすると、病気による錯覚なのではないか?」
 ということであった。
 たくさんの人が陥る錯覚だからといって、それが病気ではないと言い切れないだろう。
 つまり、ある一定の人だけに現れる症状だとすれば、それが病気であっても、一つの現象だとすればどうだろう。
 そういえば、
「ある一定の人にだけ現れる現象」
 ということで、頭に去来するものがあるのではないだろうか?
 そう、聴覚の研究で問題視された、
「モスキート音」
 というものがそれにあたるのではないだろうか?
「ある一定の年齢以上になると、聞こえなくなる
 と言われる、その音は、
「まさにステルス効果という意味で、注目に値するものだ」
 といえるのではないだろうか?
「サッチャー錯視と、モスキート音」
 まったく違うものに思えるが、それらを同時に研究することで、何かが得られるのではないかと思ったサイトウは、サッチャー錯視の研究を始めた時、再度モスキート音というものを研究してみた。
 最初に、聴覚だけのものとして研究していた時には気づかなかったことが、サッチャー錯視というものと重ねると、さらにステルス性の重要性も分かってきて、
「なぜ、聞こえる人と聞こえない人がいるのか?」
 という科学的なメカニズムだけではなく、
「理論的な生態系のようなものが、どこかに働いているのではないか?」
 と思うようになると、そこに存在しているものは、
「人間は、分類することができるのではないか?」
 ということであった。
「できる人間、できない人間。ひいては、必要な人間、不要な人間」
 という発想だ。
 以前、絵を描いている芸術家の話を聞いたことがあった。
「絵描きというのは、目の前にある光景を、そのまま映し出すだけではないんだ。時には大胆な省略を行うことで、正しく見えることがある。目の錯覚といえばいいのか、考え方の錯視である」
 と言っていた。
 そして最後に、
「俺は、大胆な省略をありだと思っている。それは人間であっても、その例外ではないと思うようになった」
 といっていたのだ。
 それが何を意味していたのか、まだ子供だったことで正直意識の片隅に残っていただけで発想はできなかった。
 しかし、今そのことを考えることで、見えていなかったものが見えてきた気がした。
「研究というものは、元来見えているものが、見えない状態になっているものを、こじ開ける作業なのではないだろうか?」
 と、サイトウは思っているのだった。
 実は、この組織を、バラバラにして、別々の国家に売りさばこうとしている組織があるという水面下での話があった。今はサイトウを中心に、
「一本にする」
 という形で行われているが、それぞれの統合はある意味難しいところがある。
 しかし、それを別々の完結型にして、ある意味、未完成版で、先進国の中でも、あまり裕福でない国に、格安で売れば、
「5つもあるのだから、かなりのお金になるに違いない」
 と言われていた。
 考えてみれば、それぞれを一つにして売り込むよりも、それぞれを中途半端でも、値段を究極に下げればいくらでも売れる。半額にしても、倍以上の利益が出るわけで、これほどありがたいことはないというものだ。
 秘密結社の基本は、
「金儲け」
 である。
 金になれば何でもいいというのは、強引な理論ではあるが、実際に研究の内容など、秘密結社には関係のあることではない。
 しかも、売りつける国はそれぞれバラバラで、他の国には分からないように秘密裏でやろうと考えているところがあった。
 なぜ、そんなことが分かったのかというと、
「研究員の中に、スパイが紛れ込んでいる」
 ということを基本に、怪しい人間をチェックし、外部との連絡をしていないかということをチェックする機関が調べてくれた。
 そもそも、ここの研究所に限っては、表に出ているところではないので、もし、外部からのスパイが入っているとすれば、
「内部に、スパイを手引きしている裏切り者がいる」
 ということになる。
 この研究所では、そんな輩がいれば、最初からチェックしている。
 しかし、その行動を制御したりはしない。
「やつらの行動を見て、逆にこっちからスパイしてやる」
 という、スパイ合戦を繰り広げていたのだった。
「肉を切らせて骨を断つ」
 ということである。
 それこそ、ステルス戦法というものだろう。
 あるいは、忍者のように、相手の中に入りこんで、情報を盗み出すということもある。諜報という意味での錯乱もできるだろう。
 それを思うと、
「やつらの動きやすいようにして、こっちがその動きを探ることで、何をしようとしているかを探り、逆にこちらがトラップを掛ける」
 ということができれば、向こうは、せめて、研究所のトップが日本国くらいに思っているだろう。
 まさか。某国だなどを想っているわけではないので、それを思うと、
「本当にあいつらも、お花畑的な発想だよな」
 と思えたのだ。
 当然、この情報は、某国国防相に流れ、秘密警察が動いていることだろう。
 相手組織の企みは一切消えて、その後、その秘密結社がどうなったのかも分からない。
 その秘密結社が組織されたのは、アメリカによるものだったようだ。
 アメリカ国家とは関係のないところで組織された、あくまでも、金の猛射と言ってもいい組織、ただ発生の国がアメリカというだけで、もし、これをアメリカにつきつけたとしても、アメリカ国家は、秘密結社の存在すら、国家の中から抹消するに違いない。
 というか、その秘密結社は、まともに存在などしていないのかも知れない。
 実は秘密結社の中に、研究者が紛れ込んでいた。他国に売り飛ばすことだけを目的にしている彼ら組織は、その情報を盗まれることに、それほど神経質ではなかった。
作品名:五感の研究と某国 作家名:森本晃次