五感の研究と某国
今でも、軍事のための研究が行われ、実際に、ステルスであったり、コウモリのように、見えない状態でも、見えるかのようにする兵器の開発が進んでいるではないか?
将来において、いかなる研究ができるかということを、今研究しているといっても過言ではないが、それが、かつてのハルビンの研究所に学ぶべきことはたくさんあるのではないだろうか?
もちろん、あのような悲劇を繰り返すわけにはいかないだろうが、世の中には、
「本当は、あの時の研究が今に生きているのだから、黒歴史であっても、正面から受け入れて、今を生きる」
というのも必要なのではないだろうか?
確かに、遺族や被害者からすれば、そんな歴史は、本当は忘れ去りたいのだろうが、そうもいかない。
自分たちの中で決着をつけなければいけない事実であるのは間違いない、
「決着をつけた後で、正しい歴史へと導くという意味で、隠すのではなく、黒歴史として、後世に語り継いでいく必要がある」
ということではないのだろうか?
「俺たちは忘れていないぞ」
といって、保証を求めている連中は、その保証がもし、認められると、今度はその歴史の隠ぺいに奔走するかも知れない。
つまり、自分たちだけに起こった悲劇だということを、自らで認めているにすぎないからだ。
それがどういうことなのかというと、結局、自分たちだけで肩をつけてしまうということで、本来なら、
「歴史の証人」
として、何が正しく間違っているのかということを、歴史に答えを出させる必要があるのに、それを自分たちだけですべてを片付けてしまおう、
言い方は悪いが、
「保障という形ができてしまえば、過去の忌まわしい歴史、つまり臭いものには蓋をすればいいんだ」
ということで、
「なかったことにする」
というのは、いかがなものだろうか?
ただ、それは被害者意識であり、被害者の中には、
「歴史の事実として、後世に伝える必要がある」
と思っている人も多いだろう。
「負の世界遺産」
として、戦争の生々しい爪痕が残った場所が選ばれているところもたくさんある。
日本の原爆ドームなどが、最たる例であろう。
もちろん、証拠が残らないように、すべてを破壊しつくしたことで、何も残っていないという事実もある。
それを考えれば、果たして、
「どこまで残すべきなのか?」
というのが問題になるだろう。
しかし、それらの問題は、今だけで論じられるものではなく、
「そう簡単に答えが出るものではない」
ということで、これからも、議論の対象になっていくだろう、
そういう意味で、簡単に出てくる答えに対して、どこまで信憑性があるというのか、今五感というものを研究している、日本の研究所でも、そのことは議論されている。
特にサイトウ研究員はそのことを一番強く提唱している人間であり、かつての教授の同じ考えに傾倒しているといっても過言ではないだろう。
世の中において、どこまで、研究が進んでいるか、日本だけでは分からないところが多い、
某国における世界の中心でもある研究所だけが、世界の研究をある程度把握している。
いまでこそ、
「東西冷戦」
というものはなくなり、見た目は平和ということになっているが、それ以降というのは、
「戦争と平和」
というものの形が変わっただけで、そのバランスが壊れたわけではない。
二大大国による、
「核開発競争」
は終わりをつげ、時代は、
「テロによる局地的な戦闘」
の時代を迎えた。
兵器も、最近では、ステルス性のあるものが主流になってきているようで、その開発を今していることになるのだ。
しかし、いくらステルス性を大切にすると言っても、その事実や後世に残しておかなければいけない遺産を、ステルスでごまかしてはいけない。
そういう意味で、研究がステルスにばかり向かっているというのは、果たして問題ないのかどうか、見極める必要があるのではないだろうか?
この研究所の研究も、今ではステルス性だけではないものも結構手掛けている。その考え方は、
「某国国防相」
の考え方でもあり、実際に、その国との開発は、本当の意味での、
「国家機密」
である。
この国家機密に関しては、どの国に対してもということであり、当然、国連も知るところではない。
国連というと、その名前を、
「国際連合」
という。
つまりは、戦勝国による、国際機関ということであり、
「日本、ドイツ、イタリア」
などの敗戦国は、いつまで経っても、最高の組織に入ることはできないのだ。
これこそ、
「負の遺産」
というものを、後世に受け継いでいる、
「悪しき例だ」
といえるのではないだろうか?
果たして、世界が負の遺産から脱却できるのは、いつのことなのだろうか?
大団円
「五感の研究」
を行ってきた中で、
「嗅覚、聴覚、味覚、触覚ときたが、最期には視覚が残っている」
ということであった。
ステルスという意味でいえば、一番最初に潰されるべきもので、それが潰れるからこそ、他の五感が発達することになる。その過程において開発されるものや、発生することが派生となるものも生まれてくるというもので、
視覚に対しても、錯覚という観点から、生まれてくるものであった。
あれはいつ頃からだっただろうか? サイトウは、この錯覚は、存在自体を知識として得る前に、自分で経験していた。
それは、今までにも結構あったのだが、それらを、
「研究への嗅覚」
と考えるのであれば、
「俺は、結構、嗅覚に優れているのかも知れないな」
と思った。
この研究は、いわゆる、
「サッチャー錯視」
と呼ばれるもので、比較的、一般人も意識する確率は高いという。
「上下を反転させた倒立顔において、局所的特徴の変化の検出が困難になる現象である」
と解されるもので、言葉の意味は難しいが、この感覚は、漠然として見た場合、上下対称での顔は、まったく別のものに見えるということを示しているといってもいいだろう。
この発想を考えた時、ふと、ある媒体と、そこで起こる不自然な現象について思うところがあった。
というのは、鏡という媒体に対してであった。
「鏡というのは、写った被写体では、左右対称に見えるのに、上下は反転しているわけではない」
と言われる。
考えてみればおかしな現象だが、これを誰も、
「おかしい」
と、言って問題にする人はそれほどいない。
それこそ、研究員が見抜いて、
「おかしい」
と思うのだが、実際に見えていることを、誰もおかしいと思って問題視しないのは、心の中で、
「おかしいことであっても、誰も問題だと言わないのであれば、それが正解なんだ」
という考えを持っているからであろうか?
そんなことを考えていると、実は世の中には似たようなことが結構あり、
「錯覚を錯覚だとは思わない中で、錯覚を受け入れるかのように生活している」
ということは、往々にしてあるのではないかと思えるのであった。
そんな中において、
「鏡では、左右反転するにも関わらず、なぜ上下が反転して見えないのか?」