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五感の研究と某国

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 と思われているが、何と言っても一番は、人間以外の動物だ。
 動物には、言葉というものがなく、伝達方法があるわけではない。その分、遺伝子が究極に発達しているのだろうが、少なくとも、人間のように、文字が存在し、その文字によって、子孫にそれらの危険なものについてなどを書き残すことはできない。
 それなのに、誰かに教えられたわけでもないのに、毒物をうまく嗅ぎ分けて、摂取することなく生きている。
 しかし、中にはそれらがハッキリと認識することができず、死に至ることもあるだろう。それでも、ほとんどの動物は、味覚や、嗅覚、あるいは他の五感をフルに使って、自分にとっての危険なものを察知している。
 それだけ、五感というものが、自分の身を守るということに精査されているという証拠であろう。
 ただ、一つ問題なのは、
「飽和状態になると、五感を中心とした感覚が鈍ってしまう」
 ということである。
 食べすぎたり、酒を呑みすぎると、
「味も何も分からなくなって、受け付けなくなる」
 というような状態に陥ったことは、普通なら誰にでもあることだろう。
 若い頃であれば、
「少々、たらふく食ったところで、まだまだいくらでも食える」
 と思う人も多いだろう。
 だが、年を取るにつれて、
「今までは、これくらい何でもなかったのに」
 と思うほど、食欲の限界を、食べ始めから分かってしまうこともあるようだ。
 食べ始めると、食欲が長く続いている若い頃と違って、急に食べれなくある時期が来ることを、年を重ねると分かってくるのであった。
 食べたいのに、食べられない。身体が受け付けないという、一種の限界を感じるのだ。
 気分的には、まだいくらでも食べれると思っているのに、身体が受け付けない。欲が満たされないという意味で、これも一種の欲求不満というべきであろう。
 ストレスといってもいいが、欲しているものが、食欲のように物欲であれば、どこまで精神的なものなのかが、分からなくなるのではないだろうか?
 欲というものは、いくつもある。
「食欲、性欲、睡眠欲」
 と呼ばれる、人間の生活上の三大欲とでもいえばいいのか、本能に直結するものだといってもいい。
 それ以外の欲は、どちらかというと、漠然としたものが多いかも知れない。
「いわゆる、物欲、支配欲、征服欲」
 などという欲は、似ていたり、共通点もあったりして、その中でいかに強いものなのかということが分かるというものだ。
 生活欲というものは、本能によるものなので、その限界を知っているのは、本能なのだろう。
 それ以外の欲というのは、絶対に必要なものではなく、どちらかというと、
「人間の中に備わっていると、いい方向に煤で行ける」
 というものであり、ただ、一歩間違うと、
「見えていた先が見えなくなる」
 というものなのではないかとも思えるのだった。
 つまり、伸びしろはあるが、それをいかに、自分で信じることができるかということであろう。
 五感というものは、基本的に、生活欲、つまりは、本能に大きく影響している。
 食欲など、味覚、視覚、嗅覚などが大きく影響していることだろう。
 見た目、味わい、そして匂い、それぞれ、単独でも、十分に食欲を誘うものだといってもいい。
 しかも、人間は食事をしないと死んでしまう。
 それは、もちろん、人間に限らず、どの動物もそうであり、
「弱肉強食」
 という世界の中で、
「自然界の生態系」
 というものがある。
 それは循環しているもので、おおざっぱにいうと、
「動物が、植物を摂取する。そして、排せつ物が植物の肥料となり、植物を育てる」
 というようなことが繰り返されることで、自然界が成り立っていく。
 つまりは、バランスの問題だと言ってもいいだろう。
 何かの種類が大量に異常発生をしただけで、
「自然界の生態系」
 というものは、崩れてしまう。
 それを分かっていることで、
「循環というものと、バランスというものがどれほど大切なことなのか?」
 というのを考えるようになった。
 さて、もう一つ考えられることとして、
「循環」
 というものを否定するという印象になるのだが、それが、いわゆる、
「三すくみ」
 という関係であり、この三すくみというのは、循環ではなく、バランスというものを重視した考えではないだろうか。
 つまり、一つの種類の動物が大量発生などしないように、バランスを取るという意味で、三すくみの関係となる動物が存在している、
 例えば、
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
 などがその例で、
「ヘビはカエルを食うがナメクジに溶かされてしまう。カエルはナメクジを食うが、ヘビに飲みこまれる。ナメクジはヘビには強いが、カエルには食べられる」
 というものであり、自然界のバランスを取る意味で、決して無視できるものではないということだ。
 そんな味覚の研究を、サイトウはするようになると、他でも、別の五感についえ、研究するグループができてきたのだった。

                 負の遺産

 今度できた研究部の研究しているものとしては、それは、触覚であった。
 ほとんどの五感が、顔の一部で判断するものであるのに対し、触覚だけは、すべての場所で感じるところである。つまりは、身体の神経が通っている部分であれば、すべての場所で感じる部分であり、下手をすると、身体全体であるだけに、
「実際に、どの部分で感じているのか、分からない」
 ということにもなるだろう。
 例えば、腕の内側を上にして、目を瞑って、手首あたりから、肘の曲がる部分くらいまで、人差し指と中指で、まるで人の歩みのような状態で、ゆっくりと指を進めていったとして、
「ちょうど、肘の曲げるあたりまでくれば、ストップといってくださいね?」
 という遊びをやった時に、実際にストップと言った時、そのほとんどは、まだ肘まで来ていない時が多いことだろう」
 しかも、指の動きが小刻みであればあるほど、錯覚が激しいものだという。
 腕の内側、それも、手首からどんどんと腕の付け根に近づいていくほど、神経が敏感になっていて、近づくほどにその感覚がマヒしていくということであろう。
 最初が最高に感じていて、ゾクゾクするほどなのだろうが、慣れてくるうちに、すでに、指が目的地に到達していると勘違いをしてしまう。
 ひょっとすると、なれとともに、気持ちよさから、一瞬でも逃げたいという気持ちが襲ってきたとすれば、その時、無意識にストップと声をかけたのかも知れない。
 実際にやってみると、勘違いでは理由にならないほどの手前で、ストップという声を発している場合もあるのだった。
「こんなことが、本当にあるのだろうか?」
 自分でも、どうしてそんな感覚になるのか分からない。そういう意味で錯覚というのは恐ろしいものだ。
 錯覚とは違っているのかも知れないが、
「左右の手で、別々のことがどうしてもできない」
 という人もいる。
 だが、実際には左右でバラバラな行動でないとありえない公道だってある。
 それは無意識の行動であれば、左右バラバラでも問題はないと言えるだろう。
作品名:五感の研究と某国 作家名:森本晃次