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五感の研究と某国

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 言われる方とすれば、いう方が、そんなことを考えているということまで知る由もない。そうなると、それこそ、まわりに関わりたくないと思い、お互いに、
「関わりたくない」
 という利害が一致するのだが、どうしても、他の連中の頭の中から、妬みが消えることはないのだ。
 だから、妬みが違う意識に形を変えることで、どのような見方をすることになるか、環境や、その人たちにもよるだろう。
 しかし、そのせいだからといって、世間に抗うだけの勇気もなければ、力もないので、
「俺は、あいつら平凡な連中とは違い、研究者なんだ」
 ということで、研究者であるということに対して、自己満足を得ることでしか、自分の気持ちを納得させることはできないのだろう。
 本当は、距離があるはずなのに、その距離を感じさせない。それが近づくと、変な化学反応を起こしそうな人間に限って、そんな感覚になってしまう。
 だから、
「気にしないようにしよう」
 と思っていても、それで済むわけはない。
 特に、子供の頃というのは、相手が何を考えているのか分からず、自分のことも分からない。
 どう接していいのかが分からないのは、自分のことが分からないからではないだろうか?
 そんな子供時代において、思春期や反抗期というのは、どんな子供にも訪れる。変わっているという子にも訪れるというのは、自分も、まわりもよく分からない感覚ではないだろうか?
 そもそも、反抗期というが、何に対しての反抗なのか?
 親を中心とした大人に対しての反抗なのか、それとも、自分自身に対しての反抗なのか?
 あるいは、その時、考えていることに対して、反抗しようとしている発想が、表に出ているのか。
 普通の少年であれば、皆が感じていることの反対が、反抗なのだろうから、その兆候が出てきた時、
「反抗期だ」
 ということになるのだろうが、元々、変だと思われている人の反抗は、他の人の普通なのではないか?
 と思っていると、どこまでが反抗というものなのか、自分でも分からなくなってしまうのではないだろうか?
 反抗期を、
「他の子供と同じように過ごした」
 と言ってもいいサイトウだったが、それは、
「自分の性格に反抗する」
 という意味での反抗期であり、逆にサイトウの様子を見ることで、
「反抗期というのが、自分の中に潜んでいる性格に反抗することであり、逆にもう一つの性格が潜んでいるということを己自身で感じることになる」
 ということを証明しているのだと思うのだった。
 そのことで、
「自分が天邪鬼なんじゃないか?」
 と感じるのは、あくまでも、自分の中にある性格に対して、もう一つの性格が天邪鬼だと思っているのであって、決して、他の人と比較してだということではないということを示しているのであった。
 天邪鬼だと思うことで、
「自分だけが、他の人と違って、別の性格を持っている」
 と思われがちだが、そうではない。
 逆に、まわりが、
「あいつは天邪鬼なので、その分、もう一つの性格が隠れているだけだ」
 と思っているだけで、意外と本人は、
「人と違う性格を一つ持っているのだ」
 というだけのことであった。
 そのため、天邪鬼が、おかしな性格だと思われる原因だということで辻褄が合っているわけで、本人は、いたって普通だと思っていることから、
「天邪鬼というのは、まわりが認めるだけのものであって、本人には、自覚はないものなのだろう」
 ということであった。
 他の性格のように、まわりは直接その人に対して、
「お前は天邪鬼だ」
 とは、面と向かって言えないものだろう。
 しかし、実際に、そういうことをいう人もいるにはいるが、それは、どちらかというと、茶化すような言い方をする人が多いような気がする。
 つまり、
「本気で、天邪鬼だなんて思っているわけではなく、その人に対して、このままでいけば、天邪鬼になってしまうということで、気を付けるように促しているかのように感じられる時だ」
 ということになるのではないだろうか?
 天邪鬼に対して、
「お前は天邪鬼だ」
 といってどうなるだろう?
 下手にその人の悪口をただ言っているだけなので、下手をすると、自分だけが悪者になってしまい、孤立してしまう可能性があると言えるのではないだろうか?
 サイトウは、子供の頃から、
「俺は天邪鬼なんだ」
 と思っていた。
 そして、まわりの皆も、自分で自分自身のことを天邪鬼だと思っていると感じていたのだが、それは間違いだった。
 まわりは、自分のことを基本に天邪鬼を考えるのではない。あくまでも、自分は正常な考えを持っていて、自分と違う、変わった考えを持っている人間を、
「天邪鬼なんだ」
 と思っているようだ。
 だが、普通に考えると、この考え方が一番まともなのではないだろうか?
 まわりに対して、目を向けるというのが、
「自分を正当化させるため」
 という、少し言い訳がましい考え方ではあるが、一番人間らしい考え方ではないかといえるのではないだろうか?
 そう思うと、いつもまわりを気にせず、自分のことだけを考えている人間こそ、自分たちから見て、
「天邪鬼なんだ」
 ということになるのである。
 味覚医おいての研究をしているが、味覚というものに、
「五味」
 というものが存在する。
 甘味、苦味、酸味、塩味、うま味という五種類の味のことである。(場合によって意味するものが違ったりする)
 というものであり、それぞれに基本的な味が存在する。
 味を感じる舌でも、味に寄って感じる場所が違うというもので、さらに、
「味が臓器と密接な関係にある」
 という話もあったりするくらいである。
 身体の臓器で弱っているところがあれば、その臓器にともなって、欲する味が違っていたりするという。だから、逆に欲しがる味で、どの臓器が弱っているかということを想像でき、健康に対して、重要な役割を示すといってもいいだろう。
 例えば、
「?腎が弱っているときは塩辛い鹹、肝が弱っているときは酸、心が弱っているときは苦、胃が弱っているときは甘といったように、欲する味によって体のどこが疲れているのかが分かる」
 というものであった。
 ただ、いくら、臓器が欲しているからといって、過剰に摂取すると、障害を起こしてしまうこともあるので要注意である。それらは、基本的に健康診断などで、検査をすることができ、適切な味のバランスと摂取量の研究というのは、昔から継続的にされている。
 そもそも。人間が感じる味覚という意味での人間への作用として、
「栄養摂取」
 と、
「危険察知」
 という相対的な意味があると言われている。
「栄養摂取」
 と言われるものは、
「甘味、うま味、塩味」
 であろうか。
 もちろん、
「苦味、酸味」
 も食欲増進に役立つのだろうが、これらはどちらかというと、危険回避という意味合いの方が強いかも知れない。
 食べ物の中には、人間に有毒なものも含まれていたりする。そのため、口に入れた瞬間に、
「これは、有害物質である」
 という認識をしないといけない場合もある。
「たぶん、人間にはその機能が本能として息づいているのではないだろうか?」
作品名:五感の研究と某国 作家名:森本晃次