小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

五感の研究と某国

INDEX|15ページ/23ページ|

次のページ前のページ
 

 ということで、みんなが、やり方も伝授される前に恐怖から、先走って使用したことで、窒息者が続出したこともあったという話を聞いたことがあった。
 やはり、当時の情報は、有事ということもあって、かなり錯そうもしていただろうし、デマも多かったことだろう。
 そんなこともあって、そもそも、第一次世界大戦においての認識は、兵も一般市民も、かなり甘く見ていたと言われている。
 四年近く続いた戦争だったが、そもそも、
「数週間で、ケリがつく」
 と、ほとんどの人が信じていたという。
 当時の戦争は、いわゆる、
「塹壕戦」
 と呼ばれるもので、自分の陣地に塹壕という穴を掘っての持久戦というのが、その実態だったのだ。
 そのために、雨が降れば、ドロドロの土地にずっと、待機することになり、その場所から、動くこともできず、最悪の生活環境のために、脚気に掛かったりする人が多かったという。
 今でこそ、脚気などという病気を耳にすることもなくなったが、昔は、致死率が非常に高い、
「不治の病」
 の一つに数えられていた。
 食料も弾薬もいずれは尽きるであろうと、普通に考えられる塹壕という持久戦、近い将来、必ず訪れる、
「死の恐怖」
 と、
「病気に対する恐怖」
 とで、頭の中はパニックになっていたことだろう。
 かといって、ただの捨て駒でしかない一兵卒に、何ができるというわけではない。できることといえば、上官の命令にしたがって、戦闘を遂行し、そのうちに必ず訪れるであろう、
「死」
 というものを受け入れるしかないのだった。
 戦争とはそういうもの、相手を殺すために開発されたわけではない兵器も、下手をすれば、防御のための兵器といえど、下手をすれば、自分の命を自らで奪ってしまいかねないということを、十分に認識しておく必要があるということであった。
 今の世の中でも、言えることではないか。
 特に、最近世界を震撼させている、
「伝染病によるパンデミック」
 である。
 日本においては、ほとんど今までになかったことだった。
「戦後以来の大混乱」
 ということは、日本国としては、初めてということである。
 大日本帝国においては、戒厳令というものが存在した。
「天災や災害などのパニックが起こった時、国家がその治安を維持するため、都市の封鎖を行ったり、個人の自由を著しく制限したりできるもので、そのために、
「戒厳司令部」
 なるものが置かれたりした。
 かつての、大日本帝国は、有事というものを前提として構成されていたので、普通に国家の権限で、戒厳令を出すことができる。
 しかし、今の日本は、その日本国憲法において、平和憲法であるということと、基本的人権を尊重するということが、原則として含まれているので、
「有事は存在しない」
 という前提で作られている。
 つまり、
「大日本帝国下では、戒厳令が存在しない」
 ということになるのだ。
 そのため、他の国が行っている、
「ロックダウン」
 と言われる、都市封鎖は日本では行えない。
 以前、特別法の類として、伝染病が流行った時のような場合、
「緊急事態宣言」
 というものを発令できることになった。
 ただ、それは、命令ではなく、国家からの要請でしかないので、当然、守らなかったかといって、罰則規定は存在しない。
 しかし、実際に、パンデミックが日本にも起こり、緊急事態宣言が発令された時、罰則がないといえども、要請をほとんどの人たちが守った。
 中には守らない人たちもいたが、
「そんなものに従っていては、明日の生活もままならない」
 つまりは、翌日の食べ物も得ることができないというほどに切羽詰まった人が、かなりいるということだ。
「要請にしたがった時点で、死を意味する」
 という人たちは、相当数いたはずだが、それでも従う人は従った。
 しかし、それでも、どうすることもできずに店を開けると、
「あの店は、要請にしたがっていない」
 といって騒ぎ立てる連中がいる。
 それを、いわゆる、
「自粛警察」
 と呼んで、社会問題にもなった。
 賛否両論さまざまだったが、賛否のどちらが正しいのかということは、そう簡単に結論が出るものでもない。
 賛否それぞれに考えがあり、そのどちらの言い分も、一長一短ある。
 本当は、そういう意見をすべて出し合い、何が正しいのかということを追求するのが正しい道なのかも知れない。
 しかし、結果、結論など出るわけはなく、堂々巡りを繰り返すだけだと思っている人もいる。
 つまり、
「自粛警察なるものの言っていることは、確かに間違っていないが、パンデミックで混乱している今出てきている問題だからこそ、キチンと向き合って、その結論を求めるのが本当なのだろうが、どうしても、先に感情論が出てしまうことで、堂々巡りを繰り返さないようにしなければいけないということを必要以上に考える必要があるのではないか?」
 と思うのだ。
 ただ、一つ言えることは、自粛警察を煽っている悪が存在している。平和な時はさほど鼻につくことはないが、何かが起これば、
「これほど、億劫なものだったのか?」
 と思えるのが、マスコミである。
「いや、やつらは、マスコミではなく、マスゴミなのだ」
 と、ゴミ扱いすることが、ある意味、悪に対しての正論なのではないかと思うのだった。

                 味覚による研究

 モスキート音を研究している人たちが最近行っているものとして、
「モスキートを生かしたステルスのより、信憑性の高さ」
 というものを研究していたのだ。
 モスキート音というのはあくまでも、
「人間の聴覚の特性」
 という特徴を利用したものであることから、その音をコントロールするということで、いかにステルス作用に近づけられるかということが問題であった。
 しかし、最近の研究では、
「モスキート音の特性を生かした新たなモスキート性を持たせる音を作り出す機械の開発ができないか?」
 ということが叫ばれるようになってきた。
 今のモスキート音は、基本的に、結界というのが、年齢というところでしかなく、もちろん、個人差があることから、
「いくつ以上」
 というハッキリとした結界を占めることはできないが、
「大体、いくつからというところで、表に見えてはいないかも知れないが、ある程度老化の年齢に比例しているのではないか?」
 と言われるところまでは分かってきていた。
 人間の聴覚の可能性というものが、モスキート音にいかに影響を与えるかということであれば、今度は逆に、どのような聴覚の持ち主であれば、認識できるかどうかというところに絞って、音の方を開発するというやり方をすることで、その音が、聞こえる人間、あるいは聞こえない人間に分けることができる。
「音によって、伝達の制限をできないか?」
 という発想から来ているもので、
 逆の発想として、
「音をそのままにしておくのであれば、補聴器やその伝達するための拡声器ならぬ、
「拡聴器」
 とでもいうような、音専用の識別機を耳につけている人間だけが認識できるような暗号を開発できないかということであった。
作品名:五感の研究と某国 作家名:森本晃次